神風を待つ前に

 
今日は軽い話題です。

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このほど、元寇の神風が本当に吹いたのではないかとする証拠が見つかったとの報道がありました。といっても、そう主張している学者がいるという話です。

その学者というのは、マサチューセッツ大学アマースト校の生態学者ジョン・ウッドラフ氏で、元寇のあった13世紀後半に2度の大洪水があったとアメリカ地質学会の会合で研究成果を発表したようです。

これは、湖の底の堆積物を分析するという方法で分かったとのことなのですけれども、この手法は割とポピュラーなもので、堆積物から当時の天候状況を割り出す為によく用いられます。

ウッドラフ氏の研究チームの調査で、伊万里湾に近い湖の底から掘り出した古い堆積層の一部に砕屑岩でできた岩石とストロンチウムを大量に含んでいたことが明らかになり、また、九州の西部の別の湖からは、砕屑岩とチタンを大量に含む堆積層が見つかったそうです。

砕屑岩とは、地表の岩石から風化・侵食によって生じた粒子によって構成される岩のことで、これらが特定の堆積層に大量に含まれるということは、その年代に激しい風化・浸食があったか、河川や海岸から大量に流れ込んだことなどが考えられます。

研究チームは、この堆積層を炭素年代測定に掛けたのですけれども、その結果、1274年と1281年の元寇の時期にピタリと一致したんだそうです。

炭素年代測定は、誤差の問題から完全ではないという指摘もありますし、台風なんて日本では毎年のことなので、どこまで正確に測定できたのかと思わないでもありませんけれども、当時嵐が来たということは文献にも残っていますし、台風は来たのだと思います。

まぁ、それが「神風」だったのかどうかというのは、解釈の問題でしょうね。

たとえば、先日来、話題となっていた、小笠原沖の中国漁船による珊瑚密漁問題ですけれども、大量の漁船団が現れた直後、台風20号があの海域を襲いました。あれを「神風」とみるかどうか。

こちらに、月別の台風経路図を示したサイトがあります。11月といえば、そろそろ台風シーズンも終わりを迎える頃なのですけれども、このサイトをみると、11月は丁度、小笠原や伊豆諸島南部に近づく台風が残っています。ですから、小笠原の台風そのものは、特異的な現象ではないと思います。

例の密漁漁船団は、台風20号の接近で一旦小笠原を離れたものの、また戻ってきているようです。海上保安庁は、小笠原周辺で漁船191隻を確認したと発表していますから、殆ど戻ってきている計算ですね。

「天は自ら助くる者を助く」といいます。神風を期待する前に行えるものが沢山あるはずです。

この記事へのコメント

  • 白なまず

    戦前までは良く知られていた昔話だと思いますが、最近では忘れ去られているようなので、、、神風と言えば戦前では神威の象徴ですが、話の内容がオカルトでしか説明できないので、現代人は非科学的として信じない人が殆どだと思います。しかし、元寇の際に神威として神風が吹く切っ掛けの逸話が佐賀県武雄市の武雄神社に伝わっています。

    武雄神社サイトより
    http://takeo-jinjya.jp/shrine/
    ーーー
    鎌倉中期の元寇では、未曾有の国難に際し、伏見天皇より異国降伏の祈祷の『綸旨』を賜る光栄に浴するなど、国家的な存在でありました。本紀によれば、文永の役の十月二十日の夜、武雄神社の神殿から鏑矢が元軍船目掛けて飛び、元軍は逃げていったとしてあり、また、弘安の役では上宮から紫の幡が元軍船の方に飛び去って、大風を起こしたとあります。この霊験により『九州五社ノ内』と称され、九州の宗社として隆々と栄えた時代もありました。
    ーーー
    これ以外にも、実は白装束の一団がお神輿らしい物を持ちだして神事を行ったと言う伝説もあるようです。お神輿の正体が何であったのかは定かではありませんが、武雄神社の逸話で「神殿から鏑矢」とか、「上宮から紫の幡が元軍船の方に飛び去って」などは神事を隠す表現ではないかと思っています。
    2014年11月08日 12:13
  • 白なまず

    武雄神社の御祭神は武内宿禰【たけうちのすくね】、武雄心命【たけおこころのみこと】、仲哀天皇【ちゅうあいてんのう】、神功皇后【じんぐうこうごう】、応神天皇【おうじんてんのう】で、五柱の神を総じて武雄大明神と号します。
    武雄市の地名は武雄心命だと思います、近くには武内と言う地名もあり三韓征伐の際に内海であった武雄の御船山に軍船を繋いだとも言われています。武内宿禰は神武天皇の血脈で、応神天皇も神武天皇の血脈で天孫族の血筋です。応神天皇は福岡県の宇美と言う所で誕生されたり、三韓征伐前後で福岡の香椎宮で暫く滞在したりしているのですが、なぜ少し離れた武雄の内海まできたかと言うと近くに温泉がありこの温泉が負傷した兵士の治療に効くと言う事で大人数で武雄にやって来て嬉野の温泉で治療したと思われます。そして、神功皇后が兵士の傷が癒えて発した「うれしいの~」が嬉野の地名になりました。嬉野近辺は昔は杵島郡とよばれ、厳島の由来ともリンクしています。ここには豊玉姫神社があり姫の使いが白なまずです。與止日女神社の御祭神は大阪の淀川の地名の元になった淀神社と繋がっています。神武天皇が難波へ上陸した辺りに因縁がつながると思います。
    2014年11月08日 12:14
  • 白なまず

    與止日女神社の御祭神である與止日女は豊玉姫であると言う言い伝えです。川上神社の近辺を海神別荘、豊玉姫を海神の姫と見立てると、御子同志の権力闘争で海にながされ新羅の王になったと思われる安曇磯良の話ともリンクしそうです。

    『海神別荘』(かいじんべっそう)は、泉鏡花による戯曲。1914年(大正3年)12月、雑誌『中央公論』に発表された。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/海神別荘
    2014年11月08日 12:26
  • ちび・むぎ・みみ・はな

    > 台風20号があの海域を襲いました。あれを「神風」とみるかどうか。

    あれを神風と呼んでしまったら,
    命を日本のために捧げた全ての物部(もののふ)達
    に申し訳がない.

    今の日本人は「平和~」「憲法9条」と
    言うばかりで国を守るために自分達では何も
    できない.

    あれを神風と呼んでしまったら, おしまいだ.
    2014年11月08日 13:00
  • 白なまず

    物部は徐福と一緒に渡来した(八咫烏談)

    徐福は二度にわたり蓬莱山を目指した。
    最初は若狭湾に上陸し、、、
    二度目は九州の有明海に上陸した。
    天孫族の御子も最初はニギハヤヒ、次にニニギが降臨した。
    ニニギの子孫が神武天皇になった。
    徐福は古代支那の斎の国からやって来た。
    元々は古代支那の春秋戦国時代の呉と越があった地域も含み、
    漢民族とは異なる古代ペルシャ経由でやってきた渡来人国家であった。
    斎の国では古代ユダヤの祭祀継承していた。
    それが秦の支那統一で天子の祭祀となっていった。
    秦の始皇帝はシルクロード経由でやって来た渡来人で古代ギリシャである
    マケドニア経由の古代ユダヤ人だと思われる。
    海のシルクロードと陸のシルクロード経由で支那大陸統一で
    古代ユダヤの祭祀が復活して天壇をつくった。
    その命を受けて日本へやって来たのが徐福一団であった。
    紀元前200年ころの話。
    そして、佐賀平野の神埼にある吉野ケ里には同時期の弥生人の遺跡がある。
    徐福らがくる前に既に熊本、八代あたりには球磨国があり有明海を支配して
    いたが、何故が徐福&物部が圧倒し、高良神社を高木の神から譲り受けて
    (強引に居座った?)それ以来、肥前と肥後に別れた。
    肥前には天孫族のニニギ、肥後には紀元前500年頃にやって来た古代支那人
    である呉人が呉王の夫差の末裔が忌部氏となり、高木の神を祀り、彼らが
    天孫族の配下に入り後に藤原氏になっていく。
    2014年11月08日 16:27
  • 泣き虫ウンモ

    過去に真言宗の坊主をしながら勉強したのですが、調伏祈願というのはいい感じはしませんね。
    国家存亡の危機の時だけ許される?
    あまり、好きではない手法ですね。
    2014年11月08日 22:08

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