今日は軽い話題で…

1月5日発売の「週刊東洋経済」に掲載されたある広告が話題になっている。
それは、海外へ進出する日系企業向けに規制やリスクなどの情報を提供するサービス「トムソン・ロイター」の広告。
くだんの広告は将棋を題材に「世界に挑むあなたを守る」と表記し、イメージ画像として盤上に駒を配置したものなのだけれど、その配置が「王将」を中心に四方八方「歩兵」で囲むというもので、実戦では完全に有り得ない囲い。
しかも、同筋に歩を2つ置く「二歩」の反則というオマケ付。
翌日、雑誌を見たと思われるツイッターユーザーが「王将をリスクから守るという意味のようですが...。それ、二歩です」と指摘、「歩の下に角を打たれたら守りに困る」とか「めちゃめちゃ弱いやぐらや」とツッコミが入っている。
通常、王将を守ると囲いと言ったら、「矢倉」とか「美濃」とか「銀冠」とか様々な種類がある。それらは、それぞれに特徴があり、どれを選択するかによって、その後の戦い方が変わってくる。
つまり、逆にいえば、どの囲いをイメージ画として使うかによって、「世界に挑むあなたをこのようにして守ります」というメッセージを付け加えることも出来るわけで、例えば、手数の少ない「舟囲い」を使って、"あっという間に守りを構築します。その後も状況に応じて「美濃」や「穴熊」にもできます"、というメッセージを送れるし、また、最初から「穴熊」をイメージ画にして、"最強の守りです"、というメッセージにすることだって出来る。
また、盤駒だって、本榧の盤に、黄楊の盛り上げ駒でも使えば、高級感を演出できるし、わざわざ「世界に挑む」と銘打つのであれば、相手型の駒をチェスの駒にしてやれば、よりそのイメージを強く打ち出せるのではないかと思う。
くだんの広告のように、「王将」のまわりに「歩」しかなくてしかも隙間だらけの囲いではいくらでも駒を打ち込まれてしまって、あっという間に詰められてしまう。"ちっとも守ってくれない"という印象のほうがずっと強くなる。
当然、こうした駒の配置で意図を読み取ろうとした人もいるわけで、ツイッターでは、「つまりルールを無視してでも護れという事なのかも」とか「弊社はルールを知らないので、あなたを守れませんと言ってるのでは」とか、果ては「法律なんて守る気ないし、お前を守るためにうちが出せるのは雑兵だけなってことだろうか…」なんて辛辣なものまである。
ここまでくると、最早、広告としては失敗したに等しいのではないかと思えてくる。
これについて取材を受けたトムソン・ロイター・マーケッツは「内容の方を注視していたので、デザインは外注先から上がってきたものを信頼して使った。このような問い合わせは初めて」と驚きを隠せない様子で語ったそうだけれど、ということは、社内の担当者含めて、誰も将棋を知らなかったということになる。
まぁ、外資系の会社だから将棋なんて知らないという言い訳もできるかもしれないけれど、ちょっと杜撰だった印象は拭えない。少なくとも、広告の発注元も作成した側も「デザインも内容の一部である」という認識があれば、こうした広告にはならなかった気がする。
これは、ある意味において、報道におけるソースの精査にも通じる問題だと思う。
産経新聞の総合オピニオンサイト『iRONNA』の特集記事で池上彰氏が朝日と日本のメディア論として、次のように述べている。
朝日の問題は、ネットでも特に注目を集めました。ネットを利用する人が情報収集する時にググると、産経の記事もネトウヨのブログも一緒になって出てきちゃうわけでしょ。並列で出てきちゃって、次々に読んでいると、どこで読んだかよく覚えてなかったりしたという経験だって誰しもきっとある。このように池上氏は、新聞社の記事は幾人もの人のチェックを経て世に出るのに対して、ネットでは、個人の思い込みだったり、勝手な意見がそのまま出るのに加えて、それらが、新聞社の記事と同列に並ぶ危険を指摘している。
新聞社の記事というのは、きちんと訓練を受けた記者が「プロ」として書き、さらにデスクが手直しして、校閲がもう一度チェックするという、何段階ものプロセスを経て世に出ますよね。
その一方で個人がやっているブログなんてのは、思い込みだったり、勝手な意見を随分出していますよね。ネットの世界では、それが一緒にされている危険がものすごくあると思うんですよね。
確かにインターネットができて誰もが記者になれる。みんなが情報発信できる。それはその通りなんですけど、結果的に取材をし、事実関係を確認し、報道することの恐ろしさって、我々は知ってますよね。間違えたらどれだけ大変なことになるのか。でもネットしかやらない人はそういう怖さを知らないわけでしょ。結局、人違いになったりして名誉棄損で訴えられたりっていうことがたびたび起きている。こういう時こそまさに「プロの力」というのが、ネットの中でもとりわけ必要だと思うし、今まさに問われているんだと思います。『iRONNA』 産経さんだって人のこと言えないでしょ?より抜粋引用
確かに、一次情報という目でみれば、新聞記事が細かくチェックされ"成形"されてから表に出るのに対して、ネットブログなんかでは、何も手を加えない素材のままに近い形で世に出てくる。
料理でいえば、差し詰め、切り身や刺身(記事)にしたり、火を通すなり、何らかの調理(社説)をして店頭に出すのが新聞記事であるのに対して、それら刺身や魚料理といっしょに釣った魚も一緒に店先に出すのがネットだといえようか。
確かにそうした差はある。
だけど、今、問題視されているのは、朝日の捏造問題のように、存在しない"魚"を、高級魚と偽って調理してみたり、河豚の肝を毒入りだと知ってか知らずか、料理して提供していたことにある。
つまり「『プロ』として書き、さらにデスクが手直しして、校閲がもう一度チェックするという、何段階ものプロセス」が意味を成していなかったことを問題視されているのであって、それを無視してはいけないと思う。要するに、情報をどうやってフィルタリングするかという問題。
それに、フィルタリングという意味ではネットにその機能がないわけではない。実際間違った記事や情報にはツッコミが入るし、炎上したりすることだってある。決して野放しというわけじゃない。
今回のトムソン・ロイターの"二歩"広告だって、ネットからそうした一種のチェックを受けたと言っていい。
だから、ネットは玉石混交だから問題だというよりは、それら店先に並んだ"魚"や"調理済みの料理"を食べる側が如何に選びかつ調理・加熱できるかという問題ではないかと思う。
つまり、食べる側の眼力というか味覚というか、溢れる情報の中から、自分で責任を持って選び、自分で料理して自らの血肉とする、といった力が求められているのだと思う。
池上氏は先の記事で、かつてのメディアではラジオが本流で、テレビは"はぐれ者"が行くところだったところが今ではそれが逆転していることを取りあげ、今は、紙媒体とネットメディアがその、かつてのラジオとテレビの関係に近いのではないかと述べている。そうかもしれない。
であるならば、将来ネットがテレビを超える日がくることだってありうるわけで、その時はネット自身が批判の矢面に立たされることになる。
その時に、生き残るネットメディアが何になるかは分からないけれど、少なくとも、大衆魚を高級魚と偽ったり、"毒入り"を調理して出そうものなら、たちまち叩かれ炎上することは間違いない。
素材にせよ、調理済みにせよ、出してはいけないものは出すべきでないという当たり前の原則は、どんなメディアであっても変わることはない。
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