今日は、この話題です…

欧州各地でテロへの警戒が高まっている。勿論、先日のフランス紙「シャルリー・エブド」が襲撃された事件を受けてのもの。
1月15日、ベルギーでは、大規模なテロを計画していた疑いのあるグループを警察が突き止め各地で一斉捜索に乗り出した。東部の町ベルビエでは武装した男達と銃撃戦の末、メンバーの2人を殺害、1人を拘束した。
また、ドイツでも、16日、ベルリンで「イスラム国」の戦闘に参加させるため若者らをシリアに送り込もうとした疑いで2人の男を逮捕している。
このように、ヨーロッパ各国でイスラム過激派組織に関係する人物の摘発や捜索を進めている。それはテロを擁護する者にも及んでいる。
1月14日、フランス司法当局は際どい風刺を売りものとする芸人デュードネ氏が、「シャルリー」とスーパー立てこもり犯とされる「アメディ・クリバリ容疑者」とひっかけて「おれはシャルリー・クリバリのような気分だ」と自身のフェイスブックに書き込んでいたことを「テロ行為の礼賛にあたりかねない」とみて身柄を拘束し、取り調べを始めた。
CBCによると、その他にも54人がヘイトスピーチとテロ防止の目的で逮捕されたという。
今や、現地では「私はシャルリー」というのが、"表現の自由"の名刺代わりに用いられているけれど、その後に「クリバリ」とつけただけで、途端にテロ礼賛として否定され、拘束される。
「私はシャルリー」がOKで「私はシャルリー・クリバリ」が駄目、ということは、要するに、彼らが奉じる"表現の自由"とて無制限の自由ではないことを意味している。
「表現の自由」は無制限ではないとなれば、どこかにその是非を決める境界線があることになるのだけれど、今回のフランスを見る限り、その境目は、政府当局が決めている。
勿論、テロは許容されるものではない。だけど、誰かが何某かの抗議の意思を示したいとき、テロや武力行使が一切使えないとなると、残る手段は言論しかない。
だけど、それも当局が何処かに勝手に線を引いて、一方的に規制したり取り締まるようになると、最終的には、その抗議の声すらあげられなくなる。唯一残された言論という手段さえ無くなってしまう。
だから、これは一歩間違えば、当局が認めた価値観以外を持ってはならない、といった思想弾圧に繋がる危険性を秘めているといえる。
元々、今回の「シャルリー・エブド」紙への襲撃は、ムハンマドに対する風刺画が原因だった。宗教の教祖や聖者を侮辱なんかしたら、その信徒から猛反発を受けるのが普通。その信徒の信仰を踏みにじる行為になるのだから当たり前。
今回の事件は「表現の自由」の名の下に、イスラム教徒の信仰を踏みにじったことが原因であることはいうまでもない。だけど、これは、言葉を変えれば、「信教の自由」と「表現の自由」の、どちらが優先されるかという問題なのではないかと思う。
どの宗教でもそうだと思うけれど、宗教の信徒はその自らの信仰を何某かの形でそれを表現する。冠婚葬祭の儀式であったり、日曜日に教会にいってお祈りしたり、お盆に法話を聞いたりして、その信仰を表にする。特にイスラム教は毎日5回のお祈りやラマダンなど、他と比べてもその信仰行為がより表に出る宗教だと思う。
信徒は自らの信仰の証を日々「表現」しているのだけれど、その表現は宗教によってそれぞれ規定されている。仏教の葬式だって、一見どれも同じように見えるかもしれないけれど、細かくみれば、戒名の付け方だって宗派によって異なるし、線香を立てる宗派もあれば、寝かせる宗派もある。神道の参拝だって、伊勢と出雲では、柏手の回数が違う。
だから、信仰の表現方法は、それこそ"宗派の数"だけあるといっていい。
従って、それぞれに千差万別な信仰の表現を全うするためには「表現の自由」が保証されていなくてはならない。
そこで、「宗教」と「表現の自由」のどちらが古いかといえば、おそらく、宗教の方が圧倒的に古いだろうと思われる。だから、元々「信教の自由」が先にあって、それを保証するために「表現の自由」が出てきたと捉えるべきではないかと思う。
主従の関係でいえば、「信教の自由」が主で「表現の自由」が従。だから、「表現の自由」の名の下に「信教の自由」を害する行為は、主従逆転であり、やはり許されるものではないと思う。
今回の事件について、ローマ法王フランシスコは、「もし友人のガスバッリ氏が私の母のことをののしったら、パンチが飛んでくるだろう。それは普通のことだ。挑発してはならないし、他の人の信仰を侮辱してもならない。信仰をからかってはならない」と述べられている。ローマ法王は明らかに、「表現の自由」の上に「信教の自由」があると発言している。
「表現の自由」は無制限じゃない。それは、信仰の証を表現するために存在しているのであって、他者の信仰を害することまで許されてはいない。我々はそれをしっかりと認識するべきだろうと思う。
この記事へのコメント
ちび・むぎ・みみ・はな
という意味と「社会規範からの逸脱」という意味がある.
小堀氏によれば, 日本語(漢文)における「自由」が最初に
使われたのは後者の意味においてであるという. つまり,
自由人とは社会の鼻つまみということであったのだ.
(英語でもfreedomとlibertyの二つがあるらしいが立ち入らない.)
社会的とり決めに対する反逆が自由であるとすれば,
自由は人が社会を構成する上では当然制限されなければならない.
それは思想だろうが信仰だろうが同じであり,
信仰の自由だから特に大切にすべきであるとはいえない.
つまり, 「自由」は「社会通念」に対して相対的に考えられる
べきものであり, 絶対的なものはない. 信仰であろうが個人の
信条であろうが, それ等が外に現れて社会を混乱させるなら
何らかの制約が加わるのは当然だ.
ちび・むぎ・みみ・はな
「社会的価値」を良く考えねばならない訳である.
欧米においてこれほどに自由が衝突するのは, 欧米における
社会的価値が揺らいで社会の危機的状況に望んでいるからである.
その原因は, 勿論, フランクフルト学派による批判理論である.
何でも批判し, 正しいと思われていた社会的通念さえも批判から
逃れなくなった社会においては「自由の間の衝突」が必然なのだ.
この点において, 人間の歴史上でもっとも貴い家系を持つ日本は
世界でももっとも幸いといわなければならない.
であるからこそ, 漸化的社会主義革命を狙うフランクフルト学派,
或は, そこから派生した怪しげなリベラリズムが天皇の御存在を
「天皇制」と卑しめて攻撃する訳だ.
古代から全ての時代の日本人から守られてきた家系がどの様な
後付けの思想より日本人の真理に近いのは当然のことである.
この根本を忘れるなら日本人は祖国を失うことになろう.
sdi
少なくとも、私が見聞きしたローマ教皇のコメントから「信仰の自由を表現の自由の上位に置く」というような意味には受取れませんでしたね。この点、日比野殿と意見が異なります。ただ、ローマ教皇の発言の全文を読んでないことも確かなです。文脈の流れの中で、そのステートメントがどういう位置に置かれていたのか、というのも結構重要ですのでで判断保留します。
泣き虫ウンモ
言論の自由の原点を、探して主張する自由は保証されるべきではないか?
学問的に、云々される筋合いはない。
云々したければ、学問の潔白性を証明して欲しいですね。