今日は感想エントリーです。

イスラム国による邦人人質事件ですけれども、問題の殺害予告動画公開から期限の72時間が過ぎてしまいました。
今のところ、新たな動きは見られず、23日、菅官房長官が記者会見で、イスラム国側からの新たなメッセージについて「特別ない」とした上で、「依然として厳しい状況だが、即刻の解放に向け、関係するありとあらゆる国々、部族長や宗教団体の代表者に協力要請をし続けていく」とコメントしました。
また、先日イギリスで行われた日英外務・防衛閣僚協議(2プラス2)に出席した岸田外相と中谷防衛相はイギリスなど関係国に救出の手掛かりとなる情報提供を求め、更に、岸田外相はアメリカ、フランスやイタリア、トルコ、ヨルダン、イランにも協力を要請したようです。
イギリス政府はこの要請に対して「全面協力」を約束したそうなのですけれども、専門家は、外国人の人質たちの正確な居場所の特定は困難だと見ています。
拘束された2人はシリア北西部のアレッポ北郊のマレア周辺で消息を絶ったとされているのですけれども、この辺りはアサド政権と反体制派、イスラム国が抗争を繰り広げている為に、イスラム国は、アレッポ付近で捕虜や人質を拘束した場合、敵対勢力に奪われないため、実効支配が確立しているラッカに移送するそうです。
これまでに解放された人質の証言から、過去にイスラム国に処刑された欧米人記者らも、ラッカ周辺で1カ所に集められていたことが明らかになっているそうで、拘束された2人もラッカに居るのではないかという観測もあります。
無論、それでも一ヶ所に集めたままということはなく、襲撃を警戒しラッカ周辺でも頻繁に場所を変えていると伝えられています。
これでは、たとえ、どんなに凄い特殊部隊を差し向けて人質を奪還しようとしたとしても、肝心の目標を発見できなければ奪還も何もありません。もうタイムリミットが経過した今となっても、まだ居場所が分からないのでは、流石に厳しいかと思います。
一方、ネットでは、処刑へのカウントダウンが始まったなどのメッセージがイスラム国系のサイトにアップされたとか、いやもう2人を処刑したといった情報が流れ、錯綜しています。
ただ、それ以上にネットを中心として湧き起っているのが「自己責任論」です。曰く、「危険を承知でいったのだから自業自得だ」とか、「身代金は自分で払わせれば良い」とか。
拘束された2人のうちの一人、フリージャーナリストの後藤健二さんは、現地で「これからラッカに向かいます。どうかこの内戦が早く終わってほしいと思っています。何が起こっても、責任は私自身にあります」という動画を残していたことが明らかになりましたから、余計にそうなのかもしれません。
勿論、この自己責任論に対して、疑問を投げかける声もあります。
作家の平野啓一郎氏は、「スポーツなどで国際的に活躍すると、『同じ日本人』として思いっきり共感するのに、紛争地帯で拘束されたりすると、いきなり『自己責任』と言って突き放してしまう冷たさは何なのか」とツイートし反響を呼んでいるようですし、また、オンラインメディア「現代ビジネス」の編集長をつとめる瀬尾傑氏は「こういう事件のときには被害者を叩く問題がよく起きるが、簡単に自己責任だというのではなく、冷静に考えるべきだ」と述べています。
特に、瀬尾氏はジャーナリストが危険地域に自ら入っていくのは、現地にいかないと分からないことがあり、「そういう一般の人の生活の中に入っていって取材して、国民がどう思っているのかを伝えるのも、ジャーナリストの大事な役割だ」と指摘しています。そして、「日本では戦場ジャーナリストというのは、フリーランスによる一部の活動と思われているが、欧米では違う。戦争報道が、ジャーナリズムの中心に位置づけられている。日本でもかつて、開高健さんがベトナム戦争を直接取材して、死ぬ思いをしながら、戦争文学の傑作を書いている。ジャーナリズムにおいて、戦争取材は極めて重要な役割を果たしているということを、ぜひ理解してほしい」と述べています。
なんでも、この「自己責任論」は、日本独特のものらしく、欧米の日本研究では必ず独立した項目として授業をやるそうです。
では、なぜ日本人は、このような反応をするのか。
まぁ、これは筆者の個人的な考えではありますけれども、恐らく、その人にどこまで「公(おおやけ)」を感じるかどうかに拠ると思うのですね。
たとえば、イスラム国に拘束され、殺害予告を受けたのが、日本の外交官だったとたら、どういう反応をしたかを考えると、多分「自衛隊を派遣して取りかえせ」なとど、イスラム国への批判の声が相当上がるのではないかと思われます。
もう10年以上も前のことですけれども、2003年にイラク北部で、日本人外交官が射殺されるという事件がありましたけれども、当時は結構騒ぎになったと記憶しています。
同じ人質になるにしても、公(おおやけ)を背負った人が、危険を承知で現地に赴いた場合と、私(わたくし)の立場で危険地帯に行った人とでは、彼等に対する目線は、やっぱり違う。
要するに、公人であればあるほど同情され、私人であればあるほど同情されにくくなる、ということですね。まぁ、これは、人様に迷惑を掛けないという日本人的な感覚の裏返しでもあるのではないかと思います。
拘束された後藤さんは、「湯川さんを助けに行く」と行って、イスラム国に行ったと伝えられています。これはこれで、確かに"人様の為"の行動には違いないでしょう。けれども、その一人を助けるための"善意の行動"が、たとえば1万人を危険に晒す、となったら、やはりそれは許されない。日本の自己責任論には、どこかそうした"引き算"の結果が反映されているように思うのですね。
例えば、今回拘束された2人を奪還しようと、自衛隊の特殊部隊か何かが突入して見事救出できたとしましょう。救出作戦に参加した隊員は無論「英雄」として迎えられるでしょうし、また、不幸にも作戦途中で命を落とした隊員がいたとしても、彼もやはり「英雄」として称えられると思います。それは、日本政府の命を受け、公人として危険地帯に行くからです。
つまり、国民がその人に対して、どこまで「公人」だと認めるか、そして「公人」だと認めたとしても、その行動が国民全体に掛かるリスクを差し引いてもプラスになるかどうか。そうした"引き算"をした上で「自己責任論」になるのかどうかが決まるのではないかと思うのですね。
その意味では、拘束された湯川さんと後藤さんは、残念ながら、イスラム国を敵に回すリスクを冒すだけの価値がある"公人"であると国民に見做されなかった。故に、「自己責任論」が優勢になっているのではないかと思います。
これが、たとえば、湯川さんが「ぼったくりバー」に拘束されて、後藤さんが助けに行ったけれども、一緒に捕まった、なんてケースを想定してみると、恐らくは「やれやれ何やってんだよ」と苦笑されるくらいで、ここまで自己責任論で責め立てられることはないでしょう。
ついでにいえば、作家の平野啓一郎氏がいう「スポーツなどで国際的に活躍すると、『同じ日本人』として思いっきり共感する」というのは、その選手に対して、日本という"公(おおやけ)"を背負った公人である、と国民が見てくれるからでしょうね。
その意味では、瀬尾氏が指摘する"戦争報道がその中心に位置づけられている欧米のジャーナリズム"を日本でも実現するためには、戦争報道というものが、「非常に大事な"公"の仕事である」、と多くの日本人に認知されないと中々難しいのではないかと思います。
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