異なる存在を理解するための条件とは何か
昨日のエントリーのコメント欄で「異なる者同士では共存はあり得ない」とのコメントを戴いたので、今日はこれについてちょっと考えてみたいと思います。
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「共存」という言葉を辞書で引くと「同時に二つ以上のものが、争わずに生存すること。共有しないで、独自性を守る住み分け」とあります。要するに、食い合いとかしないで、共に存在できるということですね。これは、先の辞書にある"独自性を守る住み分け"を徹底できるならば、比較的容易に可能です。
これは、互いに干渉しないということですから、それこそ、昨日のエントリーで例えとして出したように、中国人だけのスペースコロニーやアメリカ人だけのスペースコロニー、そして日本人だけのスペースコロニーがそれぞれ一定の距離を保って宇宙に浮かんでいるようなものですね。これであれば、共存は難しくない。
問題はその"異なる者"同士が同じ場所に存在できるかということですね。そういう意味での共存について考えてみたいと思います。
二者、あるいは複数の者同士で争いが起こる理由はいろいろありますけれども、食い物以外の理由として考えられるのは、一つには自己防衛というのがあるかと思います。自分の身を護るために戦う。"窮鼠猫を噛む"といいますけれども、なぜ自己防衛という反応をするかというと、それは勿論、敵が襲ってくるからですね。
まぁ、襲ってくるから防衛するというのは分かり易いですけれども、これがエスカレートすると、相手の姿を見ただけで警戒するようになります。動物も人間に対して警戒心を持っていたりしますよね。なぜそうなるのかというと、やはり、互いに理解できないというのがあると思うんですね。
理解できない、何を考えているか分からない。そんな相手が目の前にいたら警戒するのが普通です。何をされるか分からないからです。それ程、理解できないというのは、争いの元になるということです。
理解という文字は理(ことわり)を解(かい)すると書きます。つまり、相手が持っている理屈が分かる、相手の考えが分かるということですね。そうして初めて理解できるという訳です。
では、相手を理解するためにはどうすればよいのか。
それには前提条件がいくつかあります。それは「相手の存在を認識」できて、「意思疎通しようと思い」、そして更に「意思疎通の手段がある」ということです。
理解しようにも相手が透明人間だったり、気体だったりしたら、語り掛けることはおろか、その存在を感知するさえ難しいですよね。よしんば、相手が目に見えて認識できたとしても、それがホラー映画に出てくるような怪物であったり、グロテスクな生き物だったとしたら、意思疎通云々の前に逃げ出してしまうのがオチです。そういう見た目の問題もある。そして、更に、相手と意思疎通ができる何某かの手段があることも必要ですね。最近はバウリンガルとかいう犬の鳴き声から気持ちを読み取る機械なども売られているようですけれども、翻訳機なり、通訳なり、何らかの意思疎通を可能にするがないと駄目ですよね。
このように、一口で「理解」といっても、それを行うためには、結構高いハードルがあるというわけです。
その意味では、仮に、中国人が「龍」のような姿形だったとしたら、おそらく日本人とて彼等と交流しようとはしなかったであろうと思われます。見た目が"人間でない"というだけで、途端に意思疎通が難しくなる。そういうことですね。
この辺りについて、以前、筆者は「宇宙人が地球に遊びにくるとき」と「地球人と宇宙人を繋ぐもの」の二つのエントリーで取り上げたことがあります。そこでも、そうした"見た目の問題"をクリアした後に、価値観の相違という問題がでてくると述べましたけれども、その意味では、幸いにも、人間同士という見た目の問題を回避することが出来ている我々は「価値観」だけの問題しか残っていないとも言えるのですね。
くだんのエントリーでは、将来、人類が宇宙人と交流することがあるとしたら、その鍵を握るのは仏教思想ではないか、と述べましたけれども、結局は、そのような「価値観のインフラ」を何処まで広げ、構築することができるのかということになるように思います。
まぁ、この問題はもっと掘っていけば、色々と面白い発見があるようにも思いますけれども、時間がありません。今日はこの辺りで…。
この記事へのコメント
ちび・むぎ・みみ・はな
日本では昔から共存共栄が望ましいとされてきたが,
それは日本の地形上の特徴から住み分けが容易であること,
そして, その中でできる共同体は(小さいが故に)
地域的に共通の利害関係を持ち易いからではないかと思う.
対して, ヨーロッパにしても大陸にしても,
極めて単調な地形が続くところが多いために
覇権者がいないと安定しないように思う.
その様な大陸部で長い歴史を過ごした民族は
平和とは覇権を得ることであると理解していると思う.
近代における欧米人の振舞と支那人の対応を見ていれば
そうとしか思えない.
最近の研究によれば, アイヌ系の人々は繩紋人の日本に
アジアの東北部から侵入してきたらしいが, 彼らは
先住のオホーツク文化人を駆逐し, 北海道や東北で
互いに争い続けていたらしい. 北海道に残る大騒ぎを研究すると
殆どが部族抗争が始まりであると言われている.
日本人から見ると同じ民族同士で争うのはおかしなことなので
日本人が何か仕掛けたのだろうと思う人が出てくる.
しかし, 部族抗争を繰り返して覇権を握っていくのが
日本以外の全ての代表的な民族の歴史ではなかったろうか.
朝鮮半島も同じだ.
逆に言えば, それこそが日本文化が日本以外に広がらなかった
理由でもあるに違いない.
だから, 日本人は「守る」ことを第一に考えなければならない.
ちび・むぎ・みみ・はな
正確に言えば,
「抗争を繰り返して「正統性」を握っていくのが」
と言うべきかも知れない.