今日は感想エントリーです

7月18日、対馬の海神神社に、2012年10月に韓国人窃盗団によって盗まれ、韓国に持ち込まれていた仏像2体のうち、国指定重要文化財の「銅造如来立像」が、所有者である海神神社側に返還されました。
返還の理由として、韓国の最高検は「日本に搬出された正確な経路が確認されなかったという文化財庁の鑑定結果と、国内で仏像の所有権を主張する者がいない点を考慮した」と説明していますけれども、先の世界遺産登録を巡って悪化した日韓関係を和らげるために、返還したのだという声もあります。筆者もそう思います。でなければ、今のタイミングで返す必然性がありませんし、しかも1対だけの返還ですからね。残りの1対はまた次の機会のために取っておくのでしょうか。まったく、ポーカーじゃあるまいし、信仰の対象である仏像をカードを切るように出してくる態度は感心しませんね。
それはさておき、やっと戻ってきた仏像ですけれども、右手中指の先端部分が2~3ミリ欠損していました。尤も、この仏像は、1974年の重要文化財指定当時、左手の五指と右手の中指など三指がすでに欠けていたそうなのですけれども、更に壊れているようなのですね。
これについて、韓国窃盗団の逮捕後に、韓国国立文化財研究所で撮影された写真では、すでに失われていたこととから、盗難時または、韓国への運搬中に壊れたのではないかとみられています。
仏像を盗んだ韓国窃盗団は、その後、韓国内で仏像の購入者を探し回っていて、営利目的の転売を狙っていたことが明らかになっています。ただ、転売目的であれば、品物は懇切丁寧に扱うのが普通の感覚だと思うのですけれども、なんとも"雑な"窃盗団ですね。
雑といえば、先日漸く終息宣言をだしたMERSもそうですね。感染疑い者は当局の指示を守らず勝手に出歩いたりしました。仕舞いには、とうとう当局も疑い者の管理・検査を諦め、匙を投げました。
ですから韓国当局はMERSは収束したといっていますけれども、それは当局の努力による収束というよりは、単に放置した結果だという疑念が拭えないですね。
まぁ、MERSが本当に収束したかどうかは、もう暫くはみないとはっきり分からないと思いますけれども、「韓国MERSが土着する日」のエントリーで述べたように、MERSが韓国に土着する可能性も捨てきれません。まだ警戒は解除しないほうがよいように思います。
そもそも、いくら最新の設備を揃え、体制を整えたとしても、それらをきちんと運用できなければ意味がありません。病院の一室にMERSの最新検査装置をデンと備えたとしても、肝心の患者をそれで検査することができなければ、宝の持ち腐れですよね。
また、仏像にしても、仏教徒の信仰の拠り所であることを蔑ろにするのみならず、ただの「モノ」として扱って、破損した指を見ても平然としているといった態度は、それもまた「宝の持ち腐れ」ではないかと思うんですね。なぜそれが宝であるのかをしらない。
やはり道具にせよ、芸術品にせよ、扱う側の人が、その価値を知り、意味を知った上で、しかるべき扱いをする。裏の部分、水面下の部分をきちんと押さえた上で、表の部分を扱う。でなければ、それらはその価値を十全に発揮できないのではないかと思うのですね。
昨日のエントリーで、韓国造船メーカーが後先考えず、競争意識を剥き出しにして商談を取ったはよいが、その後、赤字で苦しんでいることを取り上げましたけれども、これとて、「最新技術」とか「世界初」という具合に、表に見える部分は非常に華やかで結構なのですけれども、それを支える裏の部分、つまり、要素技術とか、資材とか、設計管理・運営といった裏方の部分を軽くみた結果だともいえると思うのですね。
実際、彼らが手掛けている海洋プラントは、韓国企業に独自の設計能力がないのみならず、資材の50%以上を海外からの輸入に依存しているのが現状なのだそうです。
どうも、かの国は「目に見えるところについて、その時だけうまくやればいい」という風に、表の見栄えばかりに目がいって、技術の継承・発展・開発といった、裏の部分への配慮が薄いのではないかと感じますね。
これについては、「永遠のキャッチアップ企業『サムスン』」のエントリーでも述べましたけれども、サムスンは消費者からよく見える「表の競争力」に徹底的に特化して、製品の技術開発と開発設計といった「裏の競争力」は日本のメーカーからのキャッチアップで済ませるという究極の「2番手戦略」で成長してきました。
確かに"2番手"でいるうちはそれでもよいかもしれません。けれども、海洋プラントの例のように、他の誰もやっていない「世界初」となると、それはもうすでに"1番手"です。その時には、やはり、"裏の支え"がどれだけしっかりしているかが大事です。
以前、「陽中の陰を欠く韓国」のエントリーでも述べましたけれども、韓国国旗には、『陰中の陽』と『陽中の陰』がありません。図らずも、これが"表"ばかり気にして"裏"を蔑ろにするかの国の性質を、象徴しているようにも見えなくもないですね。
やはり、道具にせよ、芸術品にせよ、「宝」は"表の顔"だけで出来ているのではなく、その裏にある"想いや意図"もきちんと汲みとることで、初めて、宝は"宝になる"のではないかと思いますね。
この記事へのコメント