中皇帝近平、左手を掲げて敬礼と為す
更に昨日の続きです。
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話を再び中国に戻しますけれども、中国の抗日式典(抗日戦争と世界反ファシズム勝利70周年記念)について、ケント・ギルバード氏は「史実を無視したネーミングで、PRCは平気で大嘘をつく恥知らずな国だと世界が認識したけれども、それは意図的に発した警告で、踏み絵だ」と批判しています。
つまり、史実を無視して歴史を捏造し、常識外れの行動を取っても全く恥じないことを世界に示すことで、中国のローカル・ルールを、国際ルールへ昇格させる強かな戦略なのだというわけです。
そして、一部で指摘されていましたけれども、軍事パレードで習近平主席が軍の慣例に反した「左手での敬礼」も、その一部なのだと述べています。
この「左手での敬礼」については、色々と憶測されています。
例えば、こちらの「東アジア黙示録」殿では、習近平主席が左手敬礼という失態をやらかしたとストレートに評しています。また、人民日報は「単なるカメラ角度の問題で、習主席が兵士にあいさつをしたというのが真相だ」と説明しているようです。
その一方で、こちらのサーチナの記事ように、予め計算しつくされた「演技」なのだという指摘もあります。
その記事によると、"あるネット民"の見解として「吉事は左、凶事は右に属する。君子は左を貴ぶ、用兵は右を貴ぶ」という老子の一節を紹介し、「国をしっかりと治める場合、左側の方向性を好む。戦いの場合には右側を好むから、左手で敬礼をしたのは、武力は用いない意思表示なのだ」、という説を投稿させる。
次にその投稿をメディアが記事にして広く周知させた後で、今度は「ただの挨拶だったのだ」と報道することで、当局とメディアの責任を回避しつつ、"武力は用いない"をいうイメージだけ残すようにしたのだ、というのですね。
実に手の込んだ周到な策略ですね。或は本当にそうなのかもしれません。筆者も「演技」説には同意します。ただ、筆者はもう一つ別の狙いがあるかもしれないと思うんですね。それは、人民解放軍の掌握です。
「左手での敬礼」は明らかに慣例を無視した行為ですけれども、それをわざとやることで、人民解放軍をある意味"挑発"して、習近平主席に不満を持つものを炙り出そうとしている。もしそのような輩がいれば即座に粛清する。要するに軍部を試しているのだと思うんですね。
中国の史記に「鹿を指して馬と為す」という故事があります。
秦の丞相趙高は、朝廷の権力を独占しようとしていました。けれども、群臣が承知しまいと思い、群臣を試そうと、宮中に鹿を連れ「珍しい馬がおります」と二世皇帝の胡亥に献上しました。胡亥は笑って「丞相、間違っておるぞ。鹿を馬と言うとは。」と言ったのですけれども、趙高は居並ぶ家臣達に「これはどう見えるか?馬か?鹿か?」と尋ねたところ、ある家臣は黙り、またある家臣は「鹿でございます」と答えました。
趙高は密かに鹿と言った家臣を無理に法律に当てて厳罰に処し、その後群臣は皆趙高を恐れて、過ちを指摘する者が居なくなったという故事です。
これは、いわゆる"馬鹿"という言葉の語源にもなったという説もあるのですけれども、習近平主席はこれと同じことを「左手での敬礼」でやっていると思うんですね。
習近平主席は、抗日式典で、軍を30万人削減すると発表していますけれども、当然、軍内部にはそれを快しと思わない人もいると思われますし、それ以外にも習近平主席に不満を持っている輩もいるかもしれない。習主席は、それらを粛清し、自身の権力を不動のものにしようとしている。
やはり、抗日式典は習近平主席の皇帝即位式であったといえると思いますね。
この記事へのコメント
almanos