今日は雑談です……

1月21日、参院決算委員会で、維新の党の寺田典城氏が、昨年秋に野党が憲法53条に基づき要求した臨時国会召集を政府が見送ったことについて「立憲主義を心に留めない首相だ。……無知な右翼政権だ」と批判しました。
これに対して安倍総理は「53条の要求から召集まで100日以上要した例もある。……憲法を持ち出して反知性主義と言うのなら過去の事例もひもといてほしい。しっかり勉強してほしい」と反論しました。
ここで「反知性主義」という言葉が出てきていますけれども、この言葉は昨年の読書界流行語大賞となった言葉です。
反知性主義(Anti-intellectualism)とは、知的権威やエリート主義に対して懐疑的な立場をとる主義・思想のことだと説明されますけれども、「反知性主義」というと、1963年にアメリカの思想家であるリチャード・ホフスタッター教授が著した『Anti-Intellectualism in American Life』(邦訳『アメリカの反知性主義』)が引き合いに出されることが多いようです。
この『アメリカの反知性主義』と日本の昨年の流行語大賞について、ジャーナリストの冷泉彰彦氏は次のように述べています。
この本は、「知識人であること」と「真に知的であること」の「ズレ」を徹底的に問題にしており、エリートが権威や権力となって堕落することが「アンチ・エリート」の運動を呼びこむ、従って知識人にはさらに一層の自省が求められるという「志(こころざし)の高い」メッセージが込められた本です。ということで、日本で使われている「反知性主義」という言葉は感情論であると斬っているのですね。
≪中略≫
では、今年日本で使われた「反知性主義」という言葉については、どう考えたら良いのでしょうか? 上記のように「アメリカ由来というオリジナルを無視して使うのは間違い」という批判は、必ずしも絶対ではないと思うのですが、それとは別の意味で、この「反知性主義」という言葉が使われる状況については、警戒をした方が良いと思います。
今年の日本に限って言えば、「反知性主義」という言葉が使われる局面というのは「イデオロギー上の論敵の中にある感情論に対して敵意を持つ」ことであり、それ以上でも以下でもないように思います。その敵意自体も相当程度に感情論であることが多く、結局は感情論の衝突・炎上ということになっているケースが目立っています。
もっと言えば、「お前は反知性主義だ」とか「お前こそ反知性主義だ」と言って罵倒し合うような場には余り知性はない、そう考えて距離を置いて見るべきなのでしょう。そう考えると、「今年の流行語」として年末に取り上げるのは、ふさわしくないように思います。
では、参院決算委員会で、維新の党の寺田議員がどういう意味で「反知性主義」といったのか、といいうことなのですけれども、寺田議員は去年9月の問責決議案の賛成討論でも同じ発言をしています。次に該当部分を引用します。
今回の安保法案に対しては、ほとんどの憲法学者が違憲だと指摘しています。歴代の内閣法制局長官経験者も違憲だと言っております。政府が提出する法案の違憲性をチェックしてきた方々の発言は、重いものではないでしょうか。まぁ、要するに、「人の意見を聞かないじゃないか」という意見ですね。一言でいえばそういうことだと思います。
安倍総理は、合憲違憲を判断するのは最高裁判所だと答弁してきました。その最高裁判所判事経験者や長官経験者までもが安保法案は違憲であると述べ、政府の理屈を厳しく批判しております。一昨日の地方公聴会では、「安倍総理は、反民主主義、反立憲主義であり、自らと異なる主張する専門家の意見には耳を傾けない反知性主義でもある」という手厳しい意見も出ました。
その意味では、これに対する安倍総理の「過去の事例もひもといてほしい」は、聊かズレているという気がしないでもないですね。尤も、寺田議員が問責決議の賛成討論で触れた「反知性主義」の使い方とて、ホフスタッター教授が言った意味というよりは、冷泉氏が指摘する感情論に引き摺られている感じもします。
ホフスタッター教授が言う「反知性主義」を、滅茶苦茶平たく『皆の言うことは案外正しい』という意味だと捉えるならば、その最たるものは選挙であり、次に世論調査ということになると思いますね。
だとすると、安倍総理が「反知性主義」なのかどうかは選挙が教えてくれる。寺田議員の批判が当たっているかどうかは、あと半年もすればはっきりすると思いますね。
この記事へのコメント
almanos
ういろー
↑しょせん外道売国奴ですよwww