今日はこの話題ですね。
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7月15日、トルコで軍の一部によるクーデターが発生しました。
首都アンカラではクーデター勢力によるヘリからの国会爆撃が行われ、国会一帯やイスタンブールの国際空港などに戦車部隊が展開されるなど激しいものでした。
地元報道によると、アタチュルク国際空港や、ボスポラス大橋がクーデター勢力によって閉鎖され、一気に緊迫化しました。
クーデター勢力が「行政を制圧した」と発表する中、休暇でエーゲ海沿いのマルマラスに滞在していたエルドアン大統領は、直ちに空路イスタンブールに戻り、16日未明には、空港で集まった支持者を「国家への反逆行為に対し、重い代償を支払うことになる」と演説。更に地方のテレビ局へのビデオリンクを通じて、依然として権力を握っていると語り、国民に街頭や広場に出て抗議するよう求めました。国民の一部は大統領の呼び掛けに呼応してクーデタ―勢力と衝突したようです。
トルコ政府は、アンカラ上空に軍の戦闘機を出動さてクーデター勢力のヘリを撃墜。また、大統領官邸近くではクーデター勢力の戦車に対し、戦闘機が爆弾を投下するなど、クーデター鎮圧の為に強硬姿勢を取りました。
翌16日、トルコ軍の参謀総長代行が「クーデターは失敗した」と宣言。クーデター参加者104人を殺害したと明らかにしました。
クーデターに同調したのは軍の一部にとどまったようで、今回のクーデターに絡み、全土で軍人2800人以上が逮捕。一部報道では、軍本部にいた多数の軍人が武装解除の上、投降したとも報じられています。
けれども、クーデター勢力の一部に「自国の平和運動」を名乗る反乱分子が存在し、今後も戦いを継続する姿勢を強調。北西部ギョルジュクの海軍基地でフリゲート艦に立てこもり、艦長を人質に取ったと主張しています。
無論、それだけでありません。これだけ大規模な衝突ですから、民間人にも被害が出ています。ユルドゥルム首相によると、クーデター参加者とは別に161人が死亡し、1440人が負傷したようです。
クーデターが、エルドアン大統領の休暇中に行われたことや、大統領がマルマラスで滞在していたホテルは、出発後に空爆されていることから、クーデターは計画的に行われ、更に大統領の行動情報がクーデター勢力に漏れてた可能性もあります。
トルコでは今回の除いて過去3回、1960年、1980年、1997年に軍事クーデターが発生しています。
※1971年の軍の警告が、内閣総辞職に追い込んだ「書簡によるクーデター」を含めると4回。
トルコ共和国は1923年に建国されましたけれども、創始者で初代大統領のムスタファ・ケマル・アタチュルクはオスマン帝国の将軍であり、トルコ共和国の元帥でした。また、トルコの独立戦争をアタチュルクと共に戦った軍事指導者の多くも、共和制樹立後、政治家として新生トルコ共和国を指導することになります。
アタチュルクは、国会議員と軍人の兼職を禁止することを憲法に盛り込むなど、政治と軍事の分離を図りました。とはいえ、兼職禁止になって国会議員に転向した者たちの多くは元軍人であったことから、以後も文武の高官に与えられる称号である「パシャ」と呼ばれ、軍に大きな影響力を持ち続けました。
アタチュルクが率いた共和人民党は、アタチュルクが党首を務めていた1927年に「6本の矢」と呼ばれる6大原則を定めています。それは次のとおりです。
共和主義 - 共和制の確立をめざす。この6原則は1937年に憲法にも加えられ、今の共和人民党の原則として、国家資本主義、革命主義を除いた共和主義、国民主義、人民主義、世俗主義の4原則を特に重視しています。
国民主義 - 民族主義とも訳される。トルコ民族による国民国家の確立をめざす。
人民主義 - 国民主義とも訳される。社会の諸階層・職能団体の団結をめざす。
国家資本主義 - 民族資本による国民経済の確立をめざす。
世俗主義 - 宗教の政治からの分離・排除をめざす。
革命主義
アタチュルクの死後も、国防軍の指導者はアタチュルクの後継者としての自負をもち、アタチュルクが目指した先の「6本の矢」の守護者としての役割を果たしていくようになります。
こうした経緯から、トルコにおいて、国防軍の権威は極めて高く、政治意識に目覚めているエリート集団かつ近代化路線の推進役として、国民から高い信頼を得ているという背景があります。
そうしたことから、軍はトルコの統一をもたらす最後の切り札として政治に介入する伝統があるようです。
1960年に起きたクーデターは、1950年から共和人民党に替わって政権の座にあった民主党政権が独裁化を強めていることに危機感を覚えたことが発端であり、1980年のクーデターは経済破綻に加えて、イスラム主義と左翼勢力との対立が激化、治安が極度に悪化したことが原因とされています。
そして、今回のクーデターは1997年のクーデターが遠因になっているという指摘があります。
1970年代以降、近代化に行き詰まりを見せていた中東各国では、資本主義や共産主義への信頼が下がり、その代りに宗教復興が進みイスラム勢力が台頭しました。同じくトルコもエジプトにルーツをもつ「ムスリム同胞団」などイスラム勢力の支持を受けた繁栄党が、1995年の選挙で勝利を治めたのですね。
この繁栄党を率いていたのが、現在の大統領であるエルドアン氏です。
しかし、イスラム勢力の台頭を危惧するトルコ軍がアタトゥルク以来の世俗主義を奉じて介入。繁栄党は政権を追われるばかりか、憲法裁判所によって解党にまで追い込まれます。
しかし、エルドアン氏は諦めませんでした。繁栄党に解党命令が出た直後、エルドアン氏を中心とする勢力は、「美徳党」を結成。1999年の選挙で躍進します。けれども、またもや憲法裁判所から解党命令が出されることになります。尚も諦めないエルドアン氏は美徳党の若手活動家らを中心に旗揚げされた今の「公正発展党」に身を寄せました。この「公正発展党」2002年の選挙で第一党となります。
エルドアン氏は首相に就任後、イスラム的な価値観に基づく政策を徐々に実行していくことになります。2008年に大学でのスカーフ着用を認め、2013年には90年間禁止されてきた女性公務員のスカーフ着用を解禁しました。それ以外にもアルコールの販売を規制なども行いました。
エルドアンの一期目に世俗派が支配していたトルコの各種制度の民主化や、EUや米国との関係強化を行いつつ、大きな影響力を持つ軍司令官らを押さえつけ、国務を広く掌握していた軍が支配する国家安全保障会議を文民統制下に置くなどしました。
エルドアン政権によって、トルコは、10年に及ぶ著しい経済成長を果たしました。トルコ市民の平均年間所得はエルドアン氏の政権就任当時の3500ドルから1万0500ドルへと三倍近くに激増。またイスラエルを除く中東諸国やそのほかの地域とも良好な外交関係を保ち、2010年頃には「サラディン以来のアラブ人が最も尊敬する非アラブ人指導者」、「新たなオスマン帝国を築けると考えたとしても許される」など、その国外評価は頂点を極めました。
ところが2011年の3期目を見る頃から暗雲が立ち込めます。3期目続投に向けた選挙の活動中にエルドアン氏は、アンカラで数万人の政党支持者を前に「神のおぼしめしによって勝利すれば、われわれはトルコを再建する。2002年は見習い期間のスタートだった。そして2007年に現場主任としての期間が始まった。この期間はいつまで続くのか?6月12日までだ。その日以降は親方としての期間の始まりだ」との演説を行い、多くのアナリスト達により独裁的でイスラム教色の強い政府を予期させました。
敵対するジャーナリストやクルド人活動家をはじめとする自らの敵を排除するため、軍の抑圧を目的に広範なクーデター調査を実施し、反対意見を封じ込めました。
以降、反エルドアン派との対立は増々激しくなっていきます。
2013年、政府のトップダウンで進められたイスタンブールのタクシム広場再開発計画において、環境の保全などを訴える市民が抗議集会とデモを行ったのですけれども、エルドアン氏はこれを強硬に鎮圧。死傷者を出す事態となりました。更に2014年にはツイッターやYoutubeを遮断。2016年3月には政府に批判的な新聞社が当局の管理下に置くなど、言論統制を強化しています。
こうしてみると、今回のクーデターはある意味、政教分離と祭政一致との対立であり、トルコの伝統と革新との対立であるともいえるかもしれません。
今回のクーデターが鎮圧されたとしても、火種自身はまだまだ残るものと思われます。しばらくは注意する必要あると思いますね。
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