ベネズエラとはどんな国なのか

 
昨日の続きです。

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ここで、ベネズエラとはどんな国なのか。ちょっと振り返ってみたいと思います。

ベネズエラ、正式名称「ベネズエラ・ボリバル共和国」は、南アメリカ大陸の最北端に位置し、コロンビア、ブラジルなどと国境を接し、カリブ海と大西洋に面する国です。

かつて、スペインの征服者達がこの地にやってきたとき、最大の湖・マラカイボ湖で先住民が水上で生活しているのを見て、イタリアの水の都・ヴェネツィアに見立てて「小さなヴェネツィア」と名付けたことから、ベネズエラと呼ばれるようになったという説もあります。

1498年、コロンブスがベネズエラに到達すると、翌年にはスペインが征服。各地に植民地が建設されていきました。18世紀後半になると、ベネズエラは、スペイン本国の植民地政策に反発。独立の気運が生まれ、19世紀前半にシモン・ボリバルを中心に独立戦争が行われました。1819年、ベネズエラは、エクアドルを含む大コロンビア共和国の樹立を宣言。1829年には、ベネズエラ共和国として分離独立しました。

ベネズエラの人口はおよそ3000万人。面積は日本の3倍弱あるものの、その多くをギアナ高地やアマゾン、アンデス山脈の山々が占めるため、人々が暮らしている地域は海沿いの北部に集中しています。

豊かな自然に囲まれているベネズエラは、原油の埋蔵量世界一を誇る産油国として知られ、石油以外にもさまざまな天然資源に恵まれており、ボーキサイト、鉄鉱石、天然ガス、ダイアモンド、金などが産出されます。

ベネズエラは1920年代に石油経済へ転換したのですけれども、その時、輸出農業が一気に破壊。それに伴い大土地所有制度が崩壊しました。

それでも、1980年ごろまでは豊富な石油生産による長期的な経済成長がありました。ベネズエラは、石油収入は国家に入り、国家によって分配されるので、その分配や補助金に社会全体が依存する形であった為に、社会全体が底上げされたのですね。

そのため、ベネズエラではラテンアメリカの他の国ほど、固定化された格差というのは、強くなかったとされています。

1970年代になると、日系企業の進出が始まりました。国有化されていた石油部門への進出は遅れたものの、石油以外のボーキサイトや鉄鉱石などの豊かな天然資源を目当てに、アルミニウム精製、製鉄などの資源加工のほか、自動車産業、家電組立てなど日系企業が現地生産を進めました。日本の石油企業や商社が、石油や天然ガス部門には参画するようになったのは1980年代以降の事です。

政治面では、ベネズエラは1958年から90年代まで30年以上にわたって長期安定していました。1958年、民主化運動を主導していた民主行動党(AD)、キリスト教社会党(COPEI)、民主共和国同盟(URD)の3政党の間で、軍事独裁政権から離れ、民主政治を安定化させるために、政党間協定を結びました。いわゆる大連立です。

その後、民主共和国同盟(URD)が離脱し、民主行動党(AD)、キリスト教社会党(COPEI)との二大政党による連立政権が続きますけれども、選挙は定期的に5年ごとに開かれ、その結果に基づく政権交代が行われていました。

けれども、ベネズエラの政治的安定を支えたのはそれだけではありません。

ベネズエラ政府は、政党間協定と同じような協定を民間の労使とも結びました。労使双方の代表組織を独占交渉人とし、経済政策について彼らと協議して合意を取り付け、政策の実行を約束しました。日本でいえば、さしづめ、連立政権が経団連と労働組合と協定を結んで政策を固め実行するようなものです。

つまり、政財労べったりの政権体制(ブント・フィホ体制)だということです。確かに安定するのも頷けます。

けれども、この体制は同時に歪みも生みました。時代とともに新たに生まれた産業や社会セクターがこの体制から爪弾きされてしまったのですね。

伝統的二大政党やそれと結びつくセクターによる政治支配があまりにも強固であったため、特に貧困層は政治的意見を反映することができなくなったのです。

こうして、80年代後半頃から、既存の政治体制に対する不満が生まれ、汚職が蔓延した政治家たちに対する反発も高まりました。伝統的政党やその政治家たちが「石油収入を支配している」という不満も強くなっていったのです。

そして、90年代に入ると、伝統的政党出身ではないアウトサイダー政治家に対する期待が高まります。

1998年の大統領選挙での有力候補とされたチャベス氏とサエス氏は、どちらも既存の二大政党の候補者ではありませんでした。

チャベス氏は1992年に起きたクーデター未遂事件の首謀者で元陸軍中佐でした。彼はクーデターに失敗し、逮捕された時、国民に向かって潔く自分が首謀者であることを認めました。そうした行動が、これまで責任を取ろうとしなかった既存の政治家たちと比べると、国民にはとても新鮮に感じられたとも言われています。

チャベス氏は大統領選挙で、憲法改正、民主行動党(AD)、キリスト教社会党(COPEI)の二大政党による政治の終焉、当時のカルデラ政権の新経済政策への反対、社会政策の重視、石油開放政策の中止、債務支払計画の見直し等を訴えし、見事当選を果たします。

チャベス氏は低所得者層を支持基盤とし、左翼勢力との結びつきが強く。チャベス氏の政策ブレーンであるベネズエラ中央大学のユニェス・テノリオ教授は、左翼運動の研究者として有名でした。

チャベス大統領は国家社会主義を掲げ、豊富な石油収入を財源に「貧者救済」を目的とするバラマキ政策を行いました。2007年から1000を超える国内外の資本の民間企業や農地を強制的に国有化したり接収するなどの政策を実施していきました。

また、チャベス大統領は、貧困層の生活を支えるために、主食のトウモロコシ粉などの基礎的食料、石鹸などの基礎生活財や医薬品などを中心に、公定価格を低く設定したのですけれども、採算がとれないレベルで価格設定したため、生産者は生産すればするほど赤字に転落。国内生産が縮小し、モノ不足が深まっていきます。

更に、多くの会社や農地が強制的に国有化されていった為、投資は抑えられ、農業を含め、全ての生産部門が弱体化。消費物資の大半を輸入に頼ることになります。

けれども、そんな石油収入頼みの経済運営は石油価格の下落と共に破綻。

財政を健全化するためには、輸入を極力抑え、支出を減らさなければならないのですけれども、そんなことをすれば、貧民に配給すべき物資も無くなり、貧民層の不満が拡大します。

チャベス大統領は貧民に配給する物資を確保するために、石油を担保に外国から借金して「貧者救済」路線を継続し、事態を悪化させました。

それでもチャベス大統領は演説が上手く、カリスマがありました。彼の周りには「チャベス親衛隊(チャベスモ)」と呼ばれる熱狂的な支持者がいました。彼らの大半は若者で、1999年迄に、彼らは中央行政機関から国有企業までのほぼ全ての幹部職を独占しました。

チャベス大統領は2002年の軍部によるクーデターや反チャベス派の激しい運動とストライキ・サボタージュに見舞われながらも、大統領であり続けました。

2013年、チャベス大統領が死去すると、その後を継いだのが今のマドゥロ大統領です。

明日に続きます。

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