

1.外出自粛の効果が見られなければより強い措置
4月9日、西村康稔経済再生相は経団連の中西宏明会長、日本商工会議所の三村明夫会頭とテレビ会議を行いました。
この中で、西村再生相は武漢ウイルス感染の事態収束には人と人との接触機会を最低7割、できれば8割まで減らすことが重要とし、「経済界、産業界の協力を得ることが不可欠だ。今はじめた取り組みの結果が2週間後に出てくる」と述べ、感染拡大を防ぐために働き方を見直してほしいと要請しました。
会議終了後、西村再生相は「8割削減が実行されなければ施設の使用制限を要請するなど、より強い措置に踏み切らざるを得ない」と発言。緊急事態宣言が出た7都府県や経済界と連携し、感染拡大の防止に取り組むと強調しましたけれども、8日の携帯電話の位置情報などのデータでは3割から4割程度の削減にとどまっているようです。
2.接触八割削減が目標
日本の緊急事態宣言については、海外から強制力がなく弱いとか批判されていますけれども、海外とて最初から厳しいロックダウンを行っていた訳ではありません。
「日本の緊急事態宣言はいつ解除されるか」のエントリーで、オーストラリアの例を取り上げましたけれども、イタリアでも、感染者数が200人に迫った2月23日の段階では、北部の11自治体を封鎖し、住民約5万人の出入りを禁止。北部2州の学校や映画館などを閉鎖し、サッカー・セリエAの試合も延期としました。
けれども、そんな中でも域内にあるスキーリゾートには多くの人が集まり、夕食前の「アペリティーボ(食前酒とおつまみ)」でバーは賑わっていました。与党の政治家も、グラスを傾ける姿をSNSに載せるなど、街中ではあまり緊張感はありませんでした。
ところが、3月4日、感染者が3000人、死者が100人を超えると、政府は緊急閣議を開き、イタリア全土で学校や映画館などの閉鎖を含む首相令を発し、国民に抱擁や握手をやめるよう呼び掛けました。
そして10日には全国で外出禁止、さらに食料品店と薬局を除く全ての店舗の閉鎖と在宅勤務を指示しました。
段々締め付けが厳しくなったのは、政府が対策を打ち出しても国民側の意識や行動が変わらなかったからです。イタリア人は会えば握手や抱擁、両頰にキスをし、エスプレッソやワインを飲みながら顔を突き合わせて会話を楽しむこといった文化的な背景も感染拡大を後押しした面もあることは否めません。
結局、どんなに要請したところで守れなければ意味がないということです。
3.手の平返しのイギリス
今回の日本政府の緊急事態宣言で掲げられている「他人との接触を8割削減する」という目標なのですけれども、これ
はイギリスの論文が下敷きになっています。
当初、イギリスは「集団免疫」による防疫の方針としていました。
集団免疫とは、ある感染症に対して多くの人が免疫を持っていると、免疫を持たない人に感染が及ばなくなるという考えのことで、イギリス政府は、パトリック・バランス首席科学顧問とクリス・ウィッティー首席医務官など専門家の意見を取り入れ、3月12日の段階では、具体策として持続する咳や発熱がある場合は7日間自宅隔離することを伝えただけで、学校も閉鎖せず、大規模イベントや、欧州からの渡航の制限もしませんでした。
これは、バランス首席科学顧問やウィッティー首席医務官らが、イギリスの感染流行はまだ初期段階で、感染者は次の4週間に急増し10~14週後にピークを迎える。そのため、現時点で厳しい行動制限を導入すると感染流行が最高潮に達した頃に自粛疲れが生じる危険性があるとし、大規模集会の禁止や学校閉鎖などによるマイナス面を考慮。
手洗いや、症状が表れた人の自主隔離だけでも、流行ピーク時の感染者数を2割減らせるとの予測を見据えての決定とだったようです。
ところが、それに水を指したのが、感染症研究の世界的権威が集まるインペリアル・カレッジ・ロンドンの論文でした。
4.緩和と抑圧
「Impact of non-pharmaceutical interventions (NPIs) to reduce COVID19 mortality and healthcare demand」と題されたこの論文では、新型感染症に対する根本戦略として「緩和(mitigation)」と「抑圧(suppression)」があるとしています。
「緩和」は、感染速度を遅くすることを主眼とし、感染によって重症化するリスクが最も高い人々を感染から守りながら医療への需要のピークを減らすという戦略です。
一方、「抑圧」は感染の拡大を止める(reverse epidemic growth)ことを目指し、感染者の数を低水準にまで減らした状態を無期限に継続するという戦略としています。
論文では武漢ウイルス感染症に対するワクチンが利用可能になるまでに少なくとも1年から1年半かかると指摘し、投薬のような狭義の医療には含まれない介入策として次の5つを提示しています。
・CI:症状発症者の自宅隔離/症状のある人々は7日間は家にとどまって、家庭外の接触をこの期間中に75%減らす。家庭内の接触は変化なし。70%の家庭がこの対策を遵守することを想定。論文では、伝染に実質的なインパクトをもたらすためには複数の対策の組み合わせが必要としていて。最適な緩和戦略は「CI:症状発症者の自宅隔離」と「HQ:自発的な家庭隔離」と「SDO:70歳以上や深刻な病気のリスクがある人々の社会的距離戦略」の組み合わせとしています。
・HQ:自発的な家庭隔離/ある家庭において症状がある人が特定された場合に、その家族全員が14日間家にとどまる。この隔離期間は家族内の接触は倍になる。地域(community)における接触は75%減る。この対策は50%の家庭が遵守することを想定。
・SDO:70歳以上の社会的距離戦略/職場における接触を50%減らし、家庭内の接触を25%増やし、他の接触を75%減らす。この対策は75%遵守されることを想定。
・SD:全国民の社会的距離戦略/全ての家庭が家庭外、学校、または、職場以外における接触を75%削減する。学校内の接触は変化なし。職場での接触は25%削減する。家庭内の接触は25%増えることを想定。
・PC:学校と大学の閉鎖/全ての学校を閉鎖し、25%の大学は運営し続ける。生徒の家族との接触は閉鎖期間中に50%増える。地域における接触は閉鎖期間中に25%増える。
これにより、感染ピークにおける医療需要を3分の2に減らし、死亡者数を半分にできるかもしれないとしているのですけれども、緩和戦略で感染者数を減少させたとしても、依然として、数十万人が死亡し、医療システムがキャパシティをはるかに超えるとしています。
一方、抑圧戦略はというと、最低限、「SD:全国民の社会的距離戦略」と「CI:症状発症者の自宅隔離」と「HQ:自発的な家庭隔離」が必要とされ、更に「PC:学校と大学の閉鎖」で補わないといけなくなるかもしれないとしています。
当然、学校と大学を閉鎖した場合には、働けなくなる人々が増えることによって医療システムに負の影響をもたらすかもしれないことを認識すべきと警告しています。

5.五つの介入策
論文では、もし何も対策を取らなければ、イギリスおよびアメリカ国民の81%が感染して8月までにイギリス国民の51万人、アメリカ国民の220万人が死亡すると試算しています。
この論文を受け、イギリス政府は方針を転換。4月13日には500人以上の集会禁止の方針を伝え、16日にはパブやレストラン、劇場などを避けるよう求め、高齢者や妊婦、基礎疾患のある人などは外部との接触を断つことを要請しました。
そして17日には不要不急の海外渡航を避けるよう勧告し、20日には学校を閉鎖、23日には必要不可欠な活動以外の外出を禁止し、運動のための外出は1日1回と制限。更に一緒に暮らしていない2人を超える集まりは禁止され、必需品を扱わない店舗の閉鎖も命じました。守らない場合は罰金の対象となります。
結局、論文が提示した5つの介入策をほぼ全て講じることになった訳ですね。
今後、イギリスで武漢ウイルス感染が収束に向かうのかは要注目です。

6.世間は生きている。理屈は死んでいる。
では翻って日本の収束はどうなるのか。
非常事態宣言が出された日本も、件の論文が提示されている対策のうち「全国民の社会的距離戦略」以外の4つは行っており、残った「全国民の社会的距離戦略」も部分的に実施する形です。勿論、強制力のない要請ですから、どこまで守れるかが鍵になることはいうまでもありません。
件の論文では、5つの対策が75%守られるという前提で試算されていますけれども、日本政府が人との接触を八割減らすように呼び掛けているのも、この論文を下敷きにしているのなら頷ける話です。
ただ、これは当然ながら、一人の感染者が何人に移すかの指標である基本再生産数(Ro: Basic Reproduction Number)をいくつに設定するかによっても変わってきます。
論文で設定されている基本再生産数(=Ro)は2.0~2.6なのですけれども、前述したイギリス国民の51万人が8月までに死亡するというシナリオでの基本再生産数は2.4です。

これに対し、日本の専門家会議が作成した「流行シナリオ」での「基本再生産数」は1.4、1.7、2.0の3通りです。
そして現実はどうかというと、感染症の流行が進行中の集団のある時刻における、1人の感染者が生み出した二次感染者数の平均値を示す実効再生産数では、3月21日から30日までの確定日データに基づく東京都の推定値は1.7と推定されています。
ですから、イギリスの件の論文の前提と日本のそれとでは、基本再生産数から違いますから感染の広がり具合も同じにはならないと思われます。
それ以前に、そもそも論文の数理モデルそのものが正しいのかどうかという見方もあります。
エイズなど3大感染症対策を世界で主導する医師の國井修氏は、数理モデルに使うデータや仮定が国や人口集団の状況などによって異なり、またモデルに使われていない因子が多々影響するが為に理論と現実にはかなりのずれが生じると指摘しています。
國井氏によると、最近発表された、中国で街を封鎖した措置などの効果についての論文によると、5日間前倒しして実施されていれば、感染者は3分の1に抑えられたが、5日間遅れていれば、感染者は3倍に増え4月末までに35万人以上が感染した可能性があるとのことです。
まぁ、結局本当のところは分からない、というのは身も蓋もない話ですけれども、であれば、出来る限りの手を最大限に全部打つというのは、軍事的には正しい方法です。戦力の逐次投入はいたずらに戦局を長引かせるだけですから。
その意味では、「休業要請」の対象をめぐり、国と対立してでも、より多くの対象を主張した都の方針に倣って、早期収束を目指す方がよいのではないかと思います。
まぁ、本当のところはやってみないと分かりませんけれども、国民の立場では、いよいよ感染対策が本番を迎えたと受け止め、自粛に努める他ありません。

この記事へのコメント