
1.日本学術会議は行革対象
日本学術会議が行革の対象となっていることに注目が集まっています。
10月9日、河野太郎行政・規制改革担当相は記者会見で、「予算、機構、定員の観点から見ていきたい。どれくらいの事務局の人員が必要か見ていくことになる……学術会議の会員でなく、事務方の人員だ」と、年間約10億円の学術会議に関する国の予算や、学術会議の事務局員50人体制など、内閣府に設置されている日本学術会議事務局の予算や人員の年末までの見直しに言及しました。
自民党も学術会議の在り方を検討する党プロジェクトチームを来週発足させ、活動状況や組織形態など問題点を炙り出す構えをみせていて、政府高官の中には「この機会に準民間組織にしてもいい」と牽制する人もいるそうです。
こうした動きについて、菅総理は9日のインタビューで、「学術会議の役割に関心が集まっている。これを機会に学術会議の在り方がいい方向に進むようなら歓迎したい」と評価しています。
また、菅総理は例の6名の任命拒否について「国の予算を投じる機関として国民に理解される存在であるべきことを念頭に判断した」と述べていますけれども、裏を返せば、学術会議が国民に理解されていないと認識しているということです。
2.日本学術会議は法学者が多い
今回の任命拒否問題を切っ掛けとして、日本学術会議がどういう存在であったのかについて、色々報じられ、その闇というか実態が徐々に明らかになってきています。
日本学術会議は210名の会員と約2000名の連携会員で構成され、会員は特別職、連携会員は一般職の国家公務員になります。任期は6年で、3年毎に約半数が任命替えされます。
設立当初、会員は研究者による直接選挙で選ばれていたのですけれども、1984年からは各分野の学会からの推薦方式となり、さらに2005年からは現会員が次の会員を選ぶ方式となりました。世襲制というか貴族性というか、まぁ特権階級と言われても仕方ないと思います。
日本学術会議は3つの部、 第一部(人文・社会科学)、第二部(生命科学)、第三部(理学・工学)と4つの機能別委員会(選考委員会、科学者委員会、科学と社会委員会、国際委員会)と、30の学術分野別委員会を持ち、会員はいずれかの部に所属します。
210名の会員で30の学術分野別委員会ということは単純計算で各学問分野で7名が選出されることになります。割合では3.3%ですね。
けれども、実際はそんな均等に分かれているということはなく、特に法学者が多いのではないかという指摘があります。
こちらのサイトでは、日本学術会議のHPで18期までの委員の名簿を遡って、法学者の人数を調べています。それは次のとおり
18期 法学者23名 政治学者3名で第二部は計26名 ※7部構成 法学は第二部おおよそ15名前後が選出されています。割合では7%となり、均等割りした割合3.3%の倍以上あります。
19期 法学者20名 政治学者6名で第二部は計26名
20期 法学者15名 ※3部構成に 法学は第一部
21期 法学者15名
22期 法学者15名
23期 法学者14名
24期 法学者15名
25期 法学者11名(外された3名を加えて14名) ※令和2年10月1日時点
日本学術会議法第二条には、学術会議の目的として、「日本学術会議は、わが国の科学者の内外に対する代表機関として、科学の向上発達を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させることを目的とする」とありますから、その目的に沿えば、人文系学者よりも科学系の学者により多くの会員枠を与えられてしかるべきです。
しかも、新会員の任命は、選挙でもなく現会員が次の会員を選ぶ方式ですから、普通に考えれば、法学者は次の会員にやはり法学者を選ぶものと思われます。つまり、会員の学術分野の構成はずっと変わらない訳で、いくら人文系に偏っているからといって学問分野それぞれに均等、あるいは科学系の会員を増やそうとしても事実上出来ません。たしかにこれでは、「学者の国会」ではなく「学者の全人代」です。
3.3人で210人を支配する方法
件のサイトでは、日本学術会議に法学者が多すぎると疑問を呈した上で、彼らの3分の1から半分を民主主義科学者協会法律部会の会員が占めている、と指摘しています。
この民主主義科学者協会法律部会は日本共産党の影響が強い組織で、共産党員の法学者が多く在籍している私的団体です。
なるほど、共産党の志位委員長が躍起になって反対する訳です。
では、なぜ日本共産党が日本学術会議に影響力を持っているのか。
日本学術会議の変遷について、豊田工業大学次世代文明センター長で科学史家の村上洋一郎氏は自身のサイトで次の様に明かしています。
日本学術会議はもともとは、戦後、総理府の管轄で発足しましたが、戦後という状況下で総理府の管轄力は弱く、七期も連続して務めたF氏を中心に、ある政党に完全に支配された状態が続きました。特に、1956年に日本学士院を分離して、文部省に鞍替えさせた後は、あたかも学者の自主団体であるかの如く、選挙運動などにおいても、完全に政党に牛耳られる事態が続きました。村上氏は、日本学術会議はF氏を中心に、ある政党に完全に支配された状態が続いたと述べていますけれども、F氏とある政党について、政治評論家の屋山太郎氏がF氏とは福島要一氏、ある政党とは共産党であると、その素性を暴露しています。
今、思えば、そうした状態を見ぬ振りで放置した研究者や会員に大きな責任があるのですが、見かねた政府が改革に乗り出し、それなりの手を打って来ました。1984年に会員選出は学会推薦とすることが決まり、2001年には総務省の特別機関の性格を明確にし、2005年には、内閣府の勢力拡大とともに、総理直轄、実際には内閣府管轄の特別機関という形で、日本学術会議は完全に国立機関の一つになりおおせました。
日本戦略研究フォーラムに投稿された、屋山太郎氏のコラムから件の部分を引用します。
1980年代の学術会議はまるで共産党の運動体だった。定員数は同じ210人。これを30委員会に振り分けるから一委員会7人ずつである。会員は学会に加わっている人の選挙。この中で常に選ばれる人物に福島要一という人物がいた。彼は第5部(原子力関連の委員会)に属していたが他の6人は福島の能弁に誰も反論できなかった。正に「3人で210人を支配した」訳です。
その様を見て桑原武夫氏(京都大フランス文学)がある雑誌に「3人で210人を支配する方法」という皮肉な随筆を書いた。桑原氏によるとこの委員会は最初7人全員が参加していたが、福島氏が一日中喋っているから嫌気がさして、次回は3人になる。
結局福島氏に2人は説得されて部会一致の採決をしてしまう。学術会議は50年と67年には「戦争に関わる学問には協力しない」と宣言した。一連の運動は共産党の行動方針そのもので、改善策として人選のやり方を全く変えることにした。
福島要一氏は農水省の出身で、共産党系学者に号令して毎回、当選してきた。この農業経済学者が日本の原発政策を主導したのである。加藤寛氏(慶大教授)の提案で投票は学会員たちだけにし、会員を選出する方法に改めた。
4.赤狩りが始まった
このF氏こと福島要一氏が日本学術会議に大きな影響力を及ぼしたことについて、アゴラ研究所所長の池田信夫氏は、「彼はアカデミックなポストについていなかったが、当時は修士以上の研究者は誰でも投票できたため、全国の共産党支持者を動員して36年間も会員を続けたのだ」と述べ「学術会議は1963年に原子力潜水艦の日本港湾寄港問題に関する声明でアメリカの原潜の寄港に反対し、1967年には軍事目的のための科学研究を行わない声明を決議した。これらはいずれも共産党の方針だった。このような政治利用が激しいため、普通の研究者は学術会議に関心をもたなくなった」と指摘しています。
けれども、今回の任命拒否にマスコミや日本学術会議が噛み付いて問題化した御蔭で、科学者の代わりに世論が学術会議に関心を寄せるようになりました。
これについて池田氏は「行政改革の最大の敵は無関心である。既得権を失う官僚(本件の場合は学術会議)はそれを妨害するために最大限のリソースを投入するが、ほとんどの改革は地味なので、国民は関心をもたない。それにマスコミの関心を引きつけることが重要なのだ。この騒ぎを行政改革の梃子にするつもりだとすれば、菅首相はなかなか老獪である」と述べています。
9月17日のエントリー「菅内閣にみる国民の後押し」で、筆者は、菅総裁が行革には「国民の後押し」が必要だと考えているのではないかと述べたことがありますけれども、やはり、世論を盛り上げてから改革していくという考えはあるように思います。
そして、10月4日のエントリー「日本学術会議は日本の平和的復興と人類社会の福祉に貢献しているか」で指摘したように、国内の共産党勢力、いわゆる「赤狩り」も同時に進めていく狙いもあるのではないかと思いますね。
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