師弟教育制度 その2のエントリーの続きです。
師弟関係にもとづいたクラス編成と教師の順位戦を行うことで、師も弟子も向上する。
師は弟子の成績向上が即、自分の順位に直結するので、指導力が明確に現れる。
弟子を自分で選んだ以上、生徒の出来が悪いなどと言い訳できない。
弟子もまた、良き師に巡り合うことの難しさと有り難さを感じ、学ぶこと自身に意味を見出す。
自分で師匠を選んだのだから、成績が悪いのは師が悪いからだなんていえない。悪いと思ったら去ればいい。
生徒が頑張って成績が上がるほど、教師の順位も上がっていく制度。
弟子達が師匠を偉くするために、自発的に勉学に励むとき、生徒達が自分達の先生を偉くしようと頑張り始めたとき、クラスはひとつの目標に向かう。
自分達の努力が自分の成績向上になり、それがそのまま他人の幸せに直結することを生徒達は学ぶ。
出来る子が出来ない子の面倒をみるくらいにまでクラスの一体感が進めば、いじめは消える。
生徒達の頑張りがクラスを押し上げ、そのまま教師も押し上げる。利自即利他の教育になる。
弟子が師を偉くするために頑張る姿は美しい。
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この記事へのコメント
日比野
コメントありがとうございます。「家庭を聖域にしてはいけない」は以前からよく拝見させていただいておりました。
教育問題も子供を単なる子供としてみるのか、それとも社会の宝、未来の資産としてみていくかといったとらえ方で大きくその扱いが変わるように思います。
今後ともよろしくお願いいたします。
kota
日比野さんから過去に何回かトラックバックして頂いている「家庭を聖域にしてはいけない」から来ました、kotaと申します。
昨年は記事を読んでいただきありがとうございました。
私達のブログは何名かの仲間で運営しているのですが、今年も主に教育問題や家庭の問題について追求していきますので、よろしくお願い致します。
>自分達の努力が自分の成績向上になり、それがそのまま他人の幸せに直結することを生徒達は学ぶ。
出来る子が出来ない子の面倒をみるくらいにまでクラスの一体感が進めば、いじめは消える。
その通りだと思います。寺子屋での教育も、個人の利益追求という観点が無いとは言えませんが、明らかに若者の育成や、豊かさの追求というものが、個人課題ではなく、地域のみんなの課題としてあったようです。今の子供達も、“自分のため”の勉強と言われてもピンとこないようです。
これを現代にも適応した場合、みんなで共有すべき課題とは何なのか?あたりが学力低下やいじめ問題解決の糸口になっていくのではないかと考えています。
今後ともよろしくお願い致します。