危険の感度 (権利と義務について その2)
民主主義下では、選挙で国民の代表者を選ぶことになってる。
候補者の人となりや言動。公約。それらを総合的に判断して投票する。
でもその前に候補者が言っていることを理解できなくちゃいけない。
教育の普及は必須だし、情報公開も進んでいないと判断材料すらない。
教育そのものが間違っていたら、間違った人が選出されてしまう。
昔は税金の多寡や身分で選挙権の有り無しが決まっていた。
成功者や貴族であれば、正しい判断ができるであろうという良識が内包されていた。
買収される必要もなければ、侍の矜持が私利私欲を許さない。
それを差別というのであればそうかもしれないけれど。
権利と義務が反対になれば、結果も反対になる。
投票行動を、「国民の為に本気で働く人を選ぶ良識」と捉えると、選挙は、正しい知識と情報を集めて、天に誓って嘘偽りなく公正に、全身全霊をかけて判断して投票する「義務」になる。
だから、選挙を「義務」と考えている人が多いほど、良い人を選出できる可能性が高まるし、投票率そのものも下がりようがない。
でも、「人間なら誰でも持っている権利」だから当然の権利を行使すると考えると、自分に都合の良い人を、自分の利益になるから投票する「権利」となる。
誰でも自分に不利な投票なんかしないから、自分に都合の良いという判断は仕方ない面もある。
それでも個々人が自分の判断で投票しているうちは、最終的に多数決の原理が働くから、良きにつけ悪しきにつけ、自分達の代表者を選ぶことは可能。
問題なのは、どうでもいいやと思っている人に対して、自分達に都合の良いように誘導したり、問題意識そのものを持たせないようにすること。
選挙を「権利」と考えている組織にとっては、自分達の権利と対立する人の票が集まらなければ、その分自分達が有利になる。投票率が上がらないのは好都合。
殆どの人にとって選挙権なんて、権利とも義務とも思ってなくて、ただの「もらい物」。
自分の身に危険が降りかからない限り投票しない。
危険の感度って人それぞれだけど、情報操作でかなりコントロールできる際どい部分。
たまに投票なんかしようとすると、マニュフェストは読まずにイメージで選ぶ。
選挙を義務と理解している一部の良識派と、権利と思っている一部の団体と、もらい物と思っている大多数。
投票行為は義務なんだという認識は大切。
でも、危険を感知できる鋭さや、自分の生活と国政を繋ぐ隠された糸や頭上に覆いかぶさる暗雲をダイレクトに認識できる感性はもっと大事。
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