虹の架け橋
善悪って、家庭や学校、社会を通じて教わりながら生きていくけれど、皆、六法全書を暗記している訳ではなくて、昔から伝わる伝統やしきたり、道徳律がもとになっている。
道徳律の大本をずっとさかのぼっていくと、宗教までいってしまう。
宗教は、高い山のてっぺんに教祖様がいて、教えを説いて、弟子が集まって。
時代が下るにしたがって、弟子達は山を降りていくけれど、北に下りたり、南にいったりして分派ができてゆく。
最初は互いに近いところにいたけど、降りていくに従ってどんどん離れていって。
麓まで降りると互いが見えなくなって、それぞれ勝手に自分達の派が教祖の教えを一番受け継いでいるんだと言い合って。
辺境にいくほど、いろんな分派が派生したり、時には異端と言われたり。
世界にはそんな山が沢山あって、時には別々の山から下りてきたグループ同士が辺境で争ったり。
その中で新しい考えが出てきたり、元の教えを曲解したりして。
そんな姿をみて、昔の人は知恵をだした。
向こうの神様は、じつはこっちの山に雲に乗ってやってきて、こっちの神様として現れてくださったんだって。
本地垂迹説。
これは方便なんかじゃなくて、本当にそうかも。
違う宗教なのに、教祖の教えは時に非常に似てる。
イエスの「自分のして欲しいことを他人に施しなさい」と 孔子の「己の欲せざる所、人に施すこと勿れ」
釈迦の戒「不偸盗戒、不邪淫戒」とモーセの戒「姦淫をしてはいけないこと、盗んではいけないこと」
きっと目に見えないだけで、教祖のいる山と山の頂上をつなぐ虹の架け橋があって、互いに行ったり来たりできるんだろう。
麓にいる人の中にはそんな虹が見える人がいて、争いの輪に入らずに悠々としてる。
虹が全ての山に掛かっていて、地上を照らしているのが見えるから。
そんな人はきっと、互いに自分が本家だといっている分派のリーダーなんかより、ずっと教祖様に近くって。
争いあう互いのグループを咎めるでもなく、許してる。
そんな虹の架け橋。自分も見れたらいいな。
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