日本人にとって、穢れなき姿とは、神様にお会いするための作法。神社は掃き清められた聖域。参拝者は鳥居をくぐって、本殿に向かう前に手水で手を洗うけれど、本来的な意味は身を清めること。
穢れ無き姿、穢れ無き心でもって、神様にお会いする。穢れた姿では、みっともない格好では神様にお会いする資格などない。そう思ってる。
日本人の意識には、清めの思想が根付いている。
日本では、清める意識を内に向かって求めることで、正直さ、誠実さが最も大切なものという意識を浸透させていったし、清める意識を外に向かって求めることで、無為自然。あるがままの姿が美しいとする、日本独特の美意識を生んだ。
博報堂は、世界31都市、2万5千人規模で生活者調査を行っていけれど、2004年度報告によれば、環境問題について、自分の周りでこれから重要になっていくと答えた人の割合は、総体的に関心の高いヨーロッパで20~30%台であったのに対して、東京が56.6%、大阪は58.2%と突出した結果を報告している。
日本人の美意識では、自然のあるがままの姿こそ最高の美。だから、自然保護は美しさを保つための努力と同義。お化粧やエステと同じくらい、求めて止まないものになる。意識が違う。
わびさびの美を美欲として求めたとき、人々の生活が変わる。すべてを美しく生きようとする姿勢は、そのまま自然との共生になる。
現代の消費型社会では、物欲なんて普通だけど、美欲、それもわびさびの美欲にシフトすることができれば、世界は物欲社会から離陸してゆく。消費社会が循環社会へと変貌する。
わびさびには富の多寡は関係ない。わびさびが世界で理解され、実践されていけば、欲界から離れ、エコの世界に近づく。やはり日本が世界を拓く鍵を握っている。
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この記事へのコメント
日比野
うーん。人工空間=自然の誤認から、まわりへの無関心ですか。。
そうなのかもしれませんね。
ご提示いただいた、「都市化と我々が古来持つ美意識は両立するか」については面白そうですね。折を見て、考えてみたいとおもいます。
今後ともよろしくお願いします。
江戸屋
高校時代、お行儀の時間のようなものがありまして、
茶道の心得を教えていた先生がおっしゃっていたことを思い出しました。
人をもてなすのに、贅沢な茶碗はいらぬ。
庭を掃き、水を打ち、野草を挿し、清潔な茶巾(茶碗を清める小さな白い布)さえあれば、それが最高のもてなしであるということを。
あるがままの姿を美の頂点に置く、洗練された感覚や感性は、
我等が世界に誇るものですが、都市化が進み、あまりにも人工的完璧さのある空間で育ちますと、人工的な空間=自然という誤った認識がなされ、
本物の自然やあるがままの姿というもの(例えば、生とか死とか病気とか障害とか)は、あってはならぬもの、脅威、忌み嫌うものとしてしか映らず、
そこから目を背けたり、ないものとして無関心を装ってしまうのかもしれません。
都市化と我々が古来持つ美意識とは、両立していくのでしょうか。
この辺考えてみると面白いかもしれませんね。
あきつ