禊の転回

日本では、穢れは忌むべきもの。穢れないように生きようと注意している分にはまだいいけれど、穢れを否定する考えが極端になると、そもそも穢れなんて無ければいいんだ。とか、穢れなんか最初から無いんだと思ってしまうことさえある。穢れそのものを否定すると、世の中は性善説で出来ているんだと幻想を持つようになる。

そんな日本社会では人は、行動において、常に穢れないような行動を選択することになる。自分が穢れているかどうかは世間の反応をみればよく判るから、いつも世間の目を気にするようになる。道徳規範から外れたものは穢れとされてしまうので、穢れには近寄らないように、穢れないようにと生きてゆく。究極的な禊として死を選ぶことさえある。穢れは自分が背負って消えてゆく。人様には迷惑をかけまい。これ以上穢れさせませんから、と。本当は死を選んだ方が、ずっと迷惑をかけているのだけれど。

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これらに対して、汚れは洗濯して綺麗にしましょうというのが仏教の教え。過ちを反省して、智慧を得て、自らを救うというスタンス。罪の認識と原因分析と対策まで行う。苦集滅道のプロセスが働く。

汚れたら、何故汚れてしまったのだろう。汚れるところにいたのが悪かったのだろうか。そもそもこの汚れはどこからきたのだろう。と苦の原因を集め、分析する。

汚れは浄化してしまえば、綺麗になる。汚れた服も洗濯すればまた着ることができる。泥そのものが浄化できないのであれば、周りを覆ってしまえば、汚れが飛びちらないのではないかとか、泥を迂回する道をとって、汚れないようにしようとか、分析した原因に対して対策を施し、苦の原因を滅する。

その後で、この汚れの原因はこれこれで、こう対策すればいいのだと智慧を得る。教えの中に罪の贖罪方法まで含んでいる。神に甘えたり、世間に許しを伺う余地がない。

禊は死ではなくて、反省と智慧であると転回することが大切。死を選ぶことで本人の穢れは消えても、周囲の人に苦しみの原因を作っていることを忘れちゃいけない。

日本は豊かな国土をもとにして、美に殉ずる国民性を養うことで高い精神性を保ってきた。穢れは死やお篭りで祓うのではなく、反省と智慧で洗うという認識へ転化できれば、一段と高みに上れる。

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