禊の基準

禊って要するに罪を償うためのひとつの方法。禊をする、すなわち罪を贖う基準と行動は、国や社会のもつ宗教や道徳観によって当然異なる。

キリスト教社会では、罪を犯した個人は、神に懺悔して許しを請う。神に許されたらそれで終わり。許されたかどうかは、個人の主観による。確実なのは懺悔したことによる罪の認識だけ。

例えていうなら、綺麗な服を着ていたとして、罪という泥で汚れたら、神に報告して、その度に神から新しい服を貰うようなもの。

日本社会では、罪は穢れと扱われ、禊をすることで世間から許しを得る。キリスト教的考えでは罪の認識だけだけど、日本的考えでは罪の認識に加えて禊という償い行動が加わる。

綺麗な服が汚れたら、周囲の人にまず謝る。その後で穢れた自分を恥じ入り、こんな格好で皆様の前にはいられないと、山に篭る。しばらくたって、汚れが薄くなって目立たなくなったころ、そろそろ戻っていいでしょうかと、世間様にお伺いを立てて、帰ってくる。だけど服についた泥は洗って綺麗にした訳ではなくて、自然に乾いて目立たなくなっただけ。本人は泥がまだついていることを知っている。元に戻って生活している内に忘れてしまったり、気にならなくなってゆく人もいるけれど、一生その泥汚れの跡を気にする人もいる。

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こうした、宗教や道徳観によった罪の清算方法は、多分に主観的な要素が入るから、そのまま社会に適用するとなにかと具合が悪い。そのため、客観的な基準をきめて、統制を図るために具体的行動規範となる法律を作って、不備を補完している。

キリスト教社会では、個人的な道徳規範は教えが、社会的罪に対する贖罪の具体的基準と方法は法律が受け持つことで綺麗に二分されてる。

日本社会だと穢れを清める方法として禊の考えがあるので、個人的道徳規範の中に社会的贖罪規範が混ざっている。表面上の社会的贖罪基準は法律が受け持っているけれど、禊を行うという潜在的な社会的贖罪基準もあって、二重構造になってる。

だから、たとえば凶悪犯罪者が刑期を終えて出所してきて、反省の様子もみせず、刑期を終えたのだから非難される謂れはないという態度をとったりとすると、日本人は非常な違和感を覚える。表面的贖罪は果たしていても、潜在的贖罪である禊を行っていないと感じるから。

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