穢れと禊

外人からよく日本は清潔だといわれるのは、日本人の美意識の賜物。 

自然はそのままで調和していて、あるがままの姿が最高に美しい。だから人の立ち振る舞いや心のあり方でも、常に調和して、あるがままの美しさを求める。

調和が取れ、穢れのない姿が最高に美しいとする美意識。日本人は意識の中で、穢れを許せないし、許さない。正直さ、誠実さは穢れがない証拠。だから日本人は正直さや誠実さを尊ぶし、みんな持っていないといけないものと思ってる。

些細な悪事でも、後ろめたさを感じるのは穢れたと思うから。犯罪者は穢れた者。法に触れなくても道徳的によくない行為を働いた場合でも穢れた者となる。汚名を着せられても穢れたと思うし、思われる。たとえ濡れ衣であったとしても。

法に触れた場合は、通常、刑罰によって償いをして終わりになるけれど、日本人の美意識では、刑罰の他に本人が禊を行ったかどうかが重要な指標となる。写経を続けたり、被害者へ悔恨の意を表したりして、自分を責めたり、懺悔する姿勢は禊を行っていると受け取られる。

穢れた者は禊を行って初めて許される。逆にいえば、穢れてしまったのにも関わらず、禊を行わない者は、眉を顰められ距離を置かれる対象となる。

だから、特に著名人なんかが世間の非難を受けると、お百度参りとか、八十八箇所巡礼とか、禊の旅に出たりする。一定期間が経てば、禊は終わったと宣言して戻ってくるけれど。


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何をもって禊が終わったとするかは、あいまいというか基準は無いんだけど、修行の過酷さと禊の期間を掛けた積でなんとなく判定されている。

日本人の美意識では、嘘や不誠実は穢れと扱われる。嘘や不誠実で穢れた者は禊を行わないと受け入れられない。

特亜人が日本社会に馴染みにくい理由はここにある。


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