日本の精神性の高さと時代性


日本の精神性は常に世界に先駆けていた。当の日本人がそれになかなか気づかない。

古くは、16世紀日本を訪れた宣教師ニエッキ・オルガンティーノは、ヨーロッパ人は、互いの間で賢くうつるが、日本人に比べるとはなはだ野蛮であると思う、と告白しているし、近年でも国際連盟設立当初の人種平等決議案など、時代を先取りしていた。

一般的に時代を先取りするような優れた思想は、個人から発したものが時を経て、人々に受け入れられていくものだけど、日本の場合は単一民族国家で、四方を海で囲まれた狭い国土で生きざるを得ない地理的条件があったから、逆に価値観の浸透が比較的容易だった。

また、読み書きソロバンといった教育の普及と民衆の知的好奇心の高さもあいまって、日本人の知的レベルは伝統的に非常に高いレベルを維持してきた。結果として、高い精神性をも国全体で実現してしまう強みを持った。

画像



日本の精神性の高さは特筆すべきことだけれど、時代を超えすぎた高い精神性は悲劇を生むことがある。

出る杭は打たれるけれど、どこの世界でも起こること。個人レベルで出る杭が打たれても、個人の範囲だけで留まるけれど、国レベルで出る杭が打たれると国そのものが潰れてしまう。リスクコントロールが効かない。

日本の高い精神性がその時代を超えるときは、世界で理解され、受け入れられるまで時間がかかることを知っておかなくちゃいけない。

日本の価値観を世界へ発信するときって、往々にして、日本人全体に、その価値観が拡がって日本人の共通認識となった後。国中に溢れるほどその価値観が充満してから外に漏れ出す。漏れ出しているのであって、自ら発信している訳じゃない。あまりにも当たり前すぎて明晰知化しないものだから、外国から見ると理解しにくい。唯一、明晰知化できていそうなものはアニメくらい。

また、そんな日本的価値観を、どうせ外人には分かりっこないさ、とばかり悦に入っている風にすら見えるときがある。

だから、国内では当然と思っている価値観をそのまま世界に向けて「発信」してしまってもなかなか理解されないし、時には既得権益をもつ旧勢力から攻撃対象にされる危険すらある。

卑近な例えだけれど、少し前、洗剤の要らない洗濯機が発表されたけれど、洗剤メーカーから袋叩きにあった。洗剤メーカーにとって、そんな洗濯機が普及したら死活問題。よってたかって潰す。国際政治でも同じ。

人はその理念がこれからの時代をリードするものだ、と頭で分かっていても、実際にそれに従って行動できるほど強くはない。誰も磔にはされたくないし、火あぶりの刑も嫌。民主国家レベルであれば、なおさらそう。だから国家が外交レベルで既存の価値観を覆すような、時代を超えた価値観を発信するときは注意が必要。


 人気blogランキングへ

この記事へのコメント


この記事へのトラックバック