徳治主義と民主主義と選挙

日本人は政府の決めたことをよく「お上が決めたこと」という。お上に任せておけばいい、伝統的にそんな雰囲気がある。

日本のまつりごとは、古代は天皇、中世あたりから、天皇の任命を受けた、まつりごと専門家としての征夷大将軍が受け持った。
天皇は祭祀長だから、もっとも神に近い人。神に近い人に任命された人もやっぱり神に近い人。

日本の政治は、伝統的・国民意識的に神近き人、徳ある人がまつりごとを行う、徳治主義。下々の者は従っておけば間違いない。そんな政治。

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選挙の投票基準は、候補者の政策うんぬんより、徳があるかないか、つまるところ人柄がかなりの位置を占める。だからドブ板選挙が成立する。あれは、政策ではなく、徳の多寡を計っているもの。ほんとかどうかはともかく、個別訪問を何万戸やったかが、末端の民にまで気を配っているという徳性を計る基準とされている。

選挙というものが、優れた人を選出する仕組みであるのであれば、優れた人とは究極的には全知全能の神。

全知全能の神は地上にはいないから、なるべく神に近い人にやってもらうしか選択肢はない。だけど候補者自身も元々は選挙民。

ここに、ふたつの命題が発生する。

ひとつめは「選挙民の中で、神近き人がどれくらいの割合で存在するのか分からないのに、確実に神近き人を選ぶことができるのか。」という命題。

ふたつめは「そもそも神なんて信じてない選挙民が多数を占めていたら、神近き人を選ぶこと自体成立するのか」という命題。

ひとつめの命題は、ぶっちゃけていえば、所詮程度問題。究極の神からみれば、誰でも同じ。比較的神近き人を選ぶしかないし、実際もそう。

ふたつめの命題はもっと難しい。

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国民には平等に選挙権を与えられているけれど、犬猫には選挙権はない。人間の長を決めるのに、犬猫は関係ない。種が違う。でしゃばるな。当然だ。

でも神様からみたら、同じことが言える。神の代理として地上を統べるものを選ぶのに、神を信じぬ者は関係ない。でしゃばるな。

選挙権って種の問題じゃない。どういう人を選出したいのかという目的と、候補者がその目的に相応しいかどうかを選挙民がどう判断して、投票できるのかという問題だということをこの命題は示している。

これら命題が二つとも存在する民主主義政体での選挙では、単純に候補者の公約に対して、それを了承できるか否かで判断するしくみでしか成立してはいけない筈。

神近き人が選出されるのは、選挙権を持つ人の大多数が神近き人々の集団であって、かつその選挙民が、より神に近き人を選ぼうとして投票するときにのみ成立する。

だから、日本人が理想とする徳治主義を民主制に乗せようとしたら、日本人の大多数が、神近き人のごとくに徳高き国民であり、候補者の政策はもとより、人物としてより神近き人を選ぼうと思って投票することでしか成立しない。

とても難しいこと。

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この記事へのコメント

  • fen

    難しい問題ですね。
    そもそも、日本の政治は本来神道からなり、天皇陛下を現人神として政治を行ってきたものが崩壊してしまったがために、唯(ただ)我(われ)独(ひとり)尊(たふとし)が蔓延しつつあるように思います。そのような人に誰かを神として見ることなど出来ない。
    そんな中当選し、「議員になったらグリーン車にタダで乗れる」などと言う者に神の器などあろう筈もない。
    自分はできうるなら、国家神道の復活を望みます。
    2015年08月10日 18:19

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