「声優は不要になるか」のエントリーで、声優は不要にならないといった。
声優を機械ボイスにすることや、役者をGCに置き換えるとかいった発想は、人を雇うより安くなるからという理由だけなのかもしれない。
現実にやろうとした場合、演出家か誰かしらないけれど、全てのキャラの性格づけを行う人が必要。
声優陣のアテレコを、俳優がぬいぐるみを被って演劇した状態と考えると、機械ボイスに置き換えたそれは、もはや演劇なんかじゃなくて、ひとり芝居。
コンテクストのズレがなくなる。間の取り方とか。アドリブもなくなるし、反応も同質化する。
演出家によほどの、永井一郎、山寺宏一並みの声優としての演技力がないと一人芝居も無理なのでは?
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※ コンテクスト
コンテクストは文脈と訳されます。
芝居を創っていく上での「コンテクスト」とは、一人ひとりの言語の内容、一人ひとりが使う言葉の範囲といったものと考えてください。
まず私たちは普通、次の二つの事柄を前提にして(誤解して)、他者とコミュニケーションをとっています。
1. ある事柄や品物について、自分の考えていることは、当然、その事柄や品物と一致(適確)しているものと信じている。
2. 自分がある言葉によって表明した考えや物事は、他人も同じ言葉によって表明すると考えている。
ところが、これは大きな誤りです。電子レンジを、そのまま「電子レンジ」と呼ぶか、「レンジ」と呼ぶか、「チン」と呼ぶのかは、それぞれの家庭によって違います。これを「コンテクストのずれ」といいます。
演劇を創っていくうえでは、個人個人のコンテクストのずれが、重要な位置を占めます。なぜなら、俳優というものを言語の側面から定義するならば、俳優とは「他人が書いた言葉(セリフ)を、あたかも自分の言葉のように話さなければならない職業」だからです。
たとえば、女子高生の役で「帰りにマクドナルドに寄ってかない?」というセリフがあったとします。ところが現実には「マクドナルド」を呼ぶときに、ほとんどの人が「マック」と呼んでいるでしょう。関西の人なら「マクド」となるでしょう。
しかし、すべてを現実に使われている言葉にあわせれば、リアルになるかというと、そうではありません。現実世界におけるリアルと、舞台上のリアルには若干の差があり、このような「コンテクストのずれ」を認めたうえで、その差を想像力でカバーし演技していくことが必要です。
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この記事へのコメント
きょーちゃん
fen
しかし声優は個性があってこそ意味があるので機械化は意味が無いと思います。機械化は均質のものを大量生産するのに向いているので。