宗教原理と時代性 (日本的価値観の構造 その4)

知の性能の観点からみれば、古典や世界宗教の性能は大きい。指向性が全方位におよび、また賞味期限も非常に長いから。

知の専門性の奥行きという点では、厳密性や細分化という意味において、後世のほうが進んでいる場合もあるけれど、古典や宗教は人の心のあり方を説くから、基本的な思想の核の部分は、当時も今もあまり変わらない。

だけど、新しい宗教がおこるときは、その時代の、その場にいる人々を真っ先に救う教えであるから、彼らに一番必要な教えが説かれる。結果、将来的に世界宗教になる普遍性をもった教えであっても、教えの色合いは時代と地域に縛られる。

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だから時代が下ると、教えに説かれていない事態に直面したり、教えそのものが時代に合わなくなってきたりする。教えそのものを曲げる訳にはいかないから、時の教皇や法王なんかが時代に適合するように、教えを解釈しなおしたり、新しい注釈を加えたりして、どうにかこうにか対応しようとする。憲法改正できない日本が憲法解釈をどんどん進めて、自衛隊を海外派兵できるようにしたのと同じことをするしかなくなる。教祖がいない時代では、もう勝手に教義を変更できないから。

日本的価値観は建て増し型で取替えがきく構造だから、古い部屋は引き払って、時代にマッチした最新の部屋を住処にするだけ。だから憲法解釈の必要がない。これが逆に日本に原理主義が発生しない理由になっている。

王政復古だとか、日本的精神を、とかいっても、ただ建て増したどこかの部屋が汚れているから掃除しよう、とか、最近この部屋を使ってないから使おうよ、とか言ってるだけのこと。原理主義とは違う。もともと原理はない。命だけある。

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この記事へのコメント

  • 罵愚

    それってね、日本人の思い込みではないのかな~?ローマの七つの丘にも、長安や西安にも、おなじ現象は起きているんだが、あなたが目をそむけているだけのことじゃぁないの?
     誤解しないでいただきたいのですが、わたしは、異質を排除して純化する社会もあれば、許容する社会もある。たまたま日本は許容文化の社会なんだが、これって、けっして特殊でもなければ、珍しくもない。いくつもある許容社会のひとつにすぎない、という認識です。同質の文明・文化には前述の古代ローマや支那の歴代王朝以外にも、古代エジプトや近代までのアフリカ文明、新大陸の原住民たちやポリネシアの文明など、むしろ帝国の建設には、こちらのほうが常道だともいえる。
    2015年08月10日 18:19
  • 日比野

    >つづきです。

    しかし、日本的価値観では相手にそこまでの同化を求めるようなことはしない。相手のアイデンティティを尊重する。看板も表札もそのままでいい。
    ジュビロのカレンにしてもレイソルの李にしても、日本人は彼らをみて、もうすっかり日本人だねぇと思うことはあっても、日本に住むのならとっとと帰化しろとか、日本名を名乗れ、とかつめよる訳でもありません。
    帰化するかどうかはあくまで本人の意思です。

    思想の核になにがしかを置くのは何処の国でも同じ。それはそうだと思います。日本ではそれが天皇であることもごく自然なことです。(因みに天皇はカルシファーではなく、カルシファーの火を絶やさぬように守っている防人と定義させていただいてます)

    しかし、なにを思想の核にもってくるにせよ、なぜ日本がこれほどの文化受容力を持っているのか、アンビバレントな思想にポリバレント性を持たせられたのか、棲み分けでなくひとつ屋根の下に形を保っていられるのか、これらは実に驚くべきことかと思います。
    2015年08月10日 18:19
  • ナルト

    日比野さま、こんばんは。TBありがとうございます。
    日本のすごいところは許容しながらも守るべきは守り、現代に至るまで2000年、国を存続させてきている点にあると思います。
    all or nothingでいくと、天皇制など当の昔になくなっているか、王朝が変わっているかしているはずで、これが守り通されてきたことは、日本が単なる許容だけの文明ではことが分かります。
    上のコメントであげられている事例は、どれも遠い過去のことで、現代に至るまでの連続性はありません。日本はこの連続性を保ってきたのであり、そこには日本だけに起因する何かがあると考えても不思議ではありません。
    特殊性を強調するあまり普遍性を見失うのと同じように、共通点や普遍性を追求するあまり特殊性を見失うこともあります。
    貴君のエントリはその意味でバランスが保たれていると私などは感じます。
    2015年08月10日 18:19

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