カルシファーと防人 (日本的価値観の構造 その3)

日本的価値観の建物が各種輸入思想の建て増し構造を持っていたとすると、建て増し思想の核の部分はあるのかないのかといった議論が起こってもおかしくない。

「ハウルの動く城」でのラストにそれを示唆するシーンがある。

最初、ハウルの城はいかつい巨大な城だったけれど、ラストには、床板に足が生えただけのものになる。この状態でもハウルの城といえるのかどうか。当初の巨大な城としての機能はもはや失われている。はっきりいって城じゃない。

これは丁度、建て増し構造型の価値観でいえば、各種思想がそぎ落とされて、殆どなくなった状態に等しい。このときに日本的価値観はなくなったとするかどうかという命題を提示してる。

しかし、日本人的感覚では、これでもまだハウルの城と思う。なぜかというと命が篭り、まだ動いているから。ハウルの城は外見の姿形ではなく、理念、命そのもの。それを具現化して象徴する存在が火の精霊カルシファー。

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カルシファーはハウルの城の命を象徴し、映画では、ハウルの望みに応えて、城内を作り変えたり、ソフィーの部屋を作り出したりしている。カルシファーがいれば、いくらでも再生できる。

日本的価値観を問われて返ってくる様々な答えは、おそらく建て増しされたどこかの部屋を指して言っている。

建て増し構造そのものを指して「和の精神」ということもありえるけれど、構造が思想になるかどうかは微妙なところ。原理ではないから。

鍵を握るのはカルシファー。命の象徴。その日本の命の火を燃やし続け、カルシファーが消えてしまわないように常に薪をくべ、見守りつづける防人。天皇がそれにあたるのかもしれない。

天皇は歴史的には祭司。宮中祭祀を連綿と続け、保持することで、日本的精神、日本そのものの命の火を守ってる。だから、天皇家が絶えない限り、カルシファーは存在し続け、日本的思想のハウルの城は形を保つ。そう日本人は見てる。

たぶん日本人にとって、宗教思想は原理ではなく道具。教えとは、一なる神から別れ出でて、形となって、仮の姿としてこの世に顕れたものという位置づけ。だから、教えはいくらでも流転するし、時には教えの中身すら変わることがある。そんな感覚がある。

内なる神を尊崇する気持ちさえ忘れなければ、教えの形には拘らない。全てが一なる神から別れ出でた教えだから、好きなときに好きな教えに従えばいい。そういうおおらかさがある。


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この記事へのコメント

  • 日比野

    きょーちゃんさん、おはようございます。コメントありがとうございます。
    >基礎になるカルシファーをいかに大切に育てるかでどういう人間になるか決まると思います。

    そうなんですよね。結局は心の部分なんですよね。知識をコントロールするところの心の強さと柔軟さ。子供には、優しく強く育ってほしい。そう願っています。
    2015年08月10日 18:19
  • きょーちゃん

    とてもわかり易くて、いい話をありがとうございます。
    子育てにも当てはまると思ったのですが、基礎になるカルシファーを
    いかに大切に育てるかでどういう人間になるか決まると思います。
    その後、本人がいろんな様式を試したり好んだり、破壊しても
    カルシファーさえ、力強く燃えていれば大丈夫ですね。
    お互いの子が強い火種に育ちますよう、上質の薪をくべていきましょう。

    ちなみに私、ハウルが大好きです(^^)
    2015年08月10日 18:19
  • ハウルの動く城

    カルシファーはハウルの城の命を象徴し、映画では、ハウルの望みに応えて、城内を作り変えたり、ソフィーの部屋を作り出したりしている。カルシファーがいれば、いくらでも再生できる。
    2015年08月10日 18:19
  • 罵愚

    前回に引きつつづいた質問をつづけさせていただきますが、他者から委嘱された動機をもとに増改築が行われるとすれば、他者が不在の時期は建設は中断しないと、あなたの説明は整合性を失いませんか。孤立の時期の、内部生産を、どう説明するのでしょうか?
    2015年08月10日 18:19
  • ナルト

    日比野さま、おはようございます。
    カルシファーは天皇、まさに貴君のエントリの最初のほうを読んで私もそう感じておりました。
    カルシファーさえいれば、床板に足だけになっていたハウルの城が、最後の場面では羽が生えて空を飛んでいましたね。(ハウルの動く城は3回くらい見ました:笑)
    日本国も最後は大きく羽ばたきたいものです。
    2015年08月10日 18:19

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