思想の建て増し構造の利点は、おおきく二つある。
ひとつは構造物の素材単位で取替えが利くということ。
伝統的な日本建築は、その構造から、建物の解体が比較的容易になっているから、たとえば、根太が腐るとそこだけ新しいものに取り替えできることができる。それと同じで、建て増し構造の価値観では、古くなって使えなくなった思想も、新しいものに置き換えることができる。
人間も新陳代謝で細胞がどんどん入れ替われるけど、細胞がどんなに変わっても、人としての存在がなくなるわけじゃない。だから、古い思想の一部を新しいものに置き換えても日本的価値観という建物そのものは変わらないという考えになる。
もうひとつの利点は、その時代時代にマッチした、新しい思想や有用な考えを大きな抵抗なく直ぐ取り込めること。新しい思想に対して、自分の建物の中から相性がよさそうな部屋を探して、その上に建て増しするだけ。その時々の最新思想をすぐに使える。
部分をいくら取り替えても、いくら建て増ししても、日本的価値観の建物自体がなくなる訳じゃないから、見た目がどんなに変わっても気にしない。
どうして思想の建て増しが可能なのかというと、日本神道に教義がないために、他の教えと抵触しないから。
異なる教え同士は衝突する。自分が正しいと、どちらも主張する者同士では衝突するのが普通。
でも建て増し構造であれば、他の思想は部屋として扱うから、思想はそのまま手付かずで保存される。互いに干渉しない。部屋同士はとりあえず廊下で繋いでおけばいい。無頓着といえば無頓着。
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この記事へのコメント
日比野
どんな教えであっても一なる神から分かれたひとつの顕れとして扱いますから、必要な人が必要に応じて入信すればよい。また入信した人でさえも、それらの宗教原理に従って生きようとはするのでしょうが、日本社会の価値観を壊すところまではしない。そんな感覚です。(破壊活動までいって初めて邪教扱いになります。結果がでるまで、邪教判定しない甘さがオウム事件を生む遠因にもなっている面もあると思いますが、ここでは触れません。)
ですから、いつまで経っても、キリスト教やイスラム教には席巻されることはないと思います。
どちらも本来は一なる神から分かれた存在ですから、どちらかが正しいということはなく、どちらも正しいとなります。
その意味では、キリスト教やイスラム教も日本に入ってきた時点で既に本来のキリスト教やイスラム教ではなくなっているといえるのかもしれません。
罵愚
ナルト
建築と思想の関連性については、私も建築関係の友人とたびたび話をしますが、確かに共通するものがあると思います。
このシリーズもなかなか興味深いです。続編楽しみにしております。