学歴というモノサシの意味 (学歴について考える その3)
生まれの身分がモノサシだったものを、学歴に切り替えたのが今の社会。
なぜ切り替えたかというと、知識や知力が富を生む社会だから。
学歴は効率性と相関してる。それが今の社会にマッチしてるから、学歴というモノサシが適用されているだけ。
スポーツや芸術が一番社会に富をもたらす文明であったなら、そういう人を選抜するモノサシが使われる。あやとりが富を生む世界だったら、のび太は世界中からスカウトされる。
ドラえもんの「あやとり世界」の中のひとコマで、プロあやってもうかるんだな、ぼくもなろうかな、というのび太にパパが諭す。
「ユメみたいなこといっちゃいかん。あれはたいへんな才能と努力と・・・、」
才能の有る無しはどうしようもないにしても、努力の要素がある世界のほうがまだ救いがある。才能に対して、努力の余地が大きい分野は競争自体がどんどん公平になってゆくから。生まれの身分がモノサシだと才能も努力も必要ない。競技そのものが成立しない。
真の天才は次元が違う。インドの数学者ラマヌジャンをみればよく分かる。
イギリス時代の彼は、研究室に毎朝半ダースもの新しい公式を持って現れ、そのどれもが美しかった。
彼自身はそれに証明を与えることは出来なかったけれど、彼を見出し、ケンブリッジに招聘した、ハーディがその定理の証明を与えて論文とし、共同研究の形で発表した。
新しい数式や数学上の発見は、夢の中で女神から、お告げを受けていたと彼はいう。
そんな彼は、日本の学歴のモノサシで計られると間違いなく落第生。数学以外に興味がなかったラマヌジャンは実際に落第もしてる。
でも、数学界に多大な貢献をしたことは誰でも認める大天才。
ハーディは「私の数学界への最大貢献はラマヌジャン発見である」と告白し、晩年自分を含めて、ラマヌジャンの天賦の数学的才能を点数で表している。
それによると、ハーディ自身が20点、共同研究者だったリトルウッドが30点、20世紀数学の巨匠ヒルベルトが80点で、ラマヌジャンは100点だという。
ハーディ自身は決して平凡な数学者だったわけじゃない。経済学者のケインズはハーディの輝くばかりの知性に敬服し、「あなたが毎朝30分だけ、クリケット欄を読むのと同じ集中力で株式欄を読んだら、間違いなく大金持ちになれるのに」と言って嘆いたという。
だから、モノサシの取り方で、いくらでも抽出される対象が違ってくる。
よく学歴だけを人物評価のモノサシに使うのはどうとか言うけれど、何のためのモノサシなのかという視点はもっと重要。
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この記事へのコメント
新快速 播州赤穂行き
こんにちは。「学歴」シリーズ非常に興味深く拝見させて頂きました。今般はいわゆる「サブプライム問題」と絡んで格付機関の評価の妥当性が取り沙汰されておりますが、「情報の非対称性」という点から考えると、この「学歴」という問題も同じような見方ができるのかもしれないなと思いました。結局人は他人を性格には判断できないということだと思います。そして、最後のメッセージにある「よく学歴だけを人物評価のモノサシに使うのはどうとか言うけれど、何のためのモノサシなのかという視点はもっと重要」というのもまさにその通りで、ジェネラリスト養成を目的とする大企業では、その「なんのため」というのが取る側もはっきり認識できていないがために、ついつい「学歴」というところに落ち着いてしまっていたのではという気がしております。
日比野
なるほど、格付機関の評価の妥当性との共通項はありそうですね。格付け機関が正しく判断できない、または恣意的な判断をされるということが本当にあるかどうか分かりませんが、そうなった場合、投資の世界では大きな問題にならないのでしょうか?
国内マスコミ問題ともなにか似ていますね。投資家の方々はそういった危険性に対してなんらかの防御策はもっていないのでしょうか?