偽書とされる『南方録』では、新古今集の家隆の歌
「花をのみ まつらん人に やまざとの ゆきまの草の 春をみせばや」
を利休の茶の心髄としている。
茶の湯のこころのエントリーで、虚飾を去ることで、生きとし生けるもの全ての命を慈しむことが「わびさびの心」ではないか、といった。
利休ならば、一寸の虫が、たとえ足一本がもげてなくなっても生きる姿に、命の輝きと美しさをみるのではないかと思う。
わび・さびは辞書的には、質素であるとか、枯れた味わいだとか説明されているけれど、そんなのは、虚飾を去るための方法論。
人は裸で生まれ、裸で死んでゆく。しかし、俗世を生きるうちに、身にも、心にも、飾りをつけてゆく。それが、目を曇らせ、命の輝きを見れなくし、美しさを失う。
だから、自らを質素にし、簡素にすることで、虚飾を去り、身も所為も心も清らかにして初めて本来の美しさを自覚する。自分にも世界にも。
その気持ちが、冒頭で示した、家隆の歌に繋がると思う。
なんとなれば茶の湯とは、生命の輝きをみるための、ひとつの作法ともいえるのかもしれない。
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この記事へのコメント
江戸屋
利休ならば、一寸の虫が、たとえ足一本がもげてなくなっても生きる姿に、命の輝きと美しさをみるのではないかと思う。
利休の言葉に「侘びたるは良し、侘ばしたるは悪し」というのがある。
作為を超えてあらわれるものにこそ、得がたいものがある。
つまり、これは、自然の優位性を説く。
離れの方に続きを書くつもりだったのだが、我々のイマ・ココ感覚は、
利休の美意識「偶然」や「一期一会」とも重複するように思う。
特に、偶然を待ち、偶然を愛でるという感覚は、ともすれば、刹那的で退廃的な印象が強く、西洋人には、わかりにくい感覚だろうと予想する。
日比野
西洋人が他者との融合、つまり自他一体の境地が恐ろしく感じるというのであれば、共生の思想を理解するのは難しいのかもしれませんね。
・・
命の輝きをみるための作法は、利休のことをつらつら考えていたときにふと思いついたフレーズです。本当にこれが利休の心だとすると、かなり禅の悟りを形にしたものといえる気がします。