魂をこめる (都市化と日本人の美意識は両立するか その4)
建築史学者の鈴木博之教授は、その著書で西欧に比べて日本の都市が美的でなく混乱と無秩序に満ちていると指摘されることが多いのは、我々の日常生活に永遠がなく、今しかないからだろうと述べている。
これは、形ではなくて、共に生活する建物・家屋そのものにも命の輝きを見出す日本人が、その命の輝き度合いの感じ方が個々人で違うことによって生まれているのではないだろうか。
まったく同じ形・強度の建物であったとしても、大工が魂をこめて作った建物と、生産性だけを考えてぞんざいに作った建物とでは、そこに価値の差を日本人は感じてしまう。匠の手でホゾを切って、木材をつないだものと、単に機械で作ってはめ込んだものとでは、価値が全然異なると思う感性がある。
価値の差の感じ方は人それぞれだから、簡単に壊したりする人もいれば、逆に残したりする人もいるけれど、往々にして、無機質な、命の輝きが感じられないものは軽く扱われがち。魂が入っていないと感じてしまう建物は簡単に壊されてしまう。
日本人の感性は、建物の形そのものだけで美を計っていない。むしろ命とみる。建物をも命としてみた場合、その建物は転生輪廻の対象にもなる。建物や都市をそのままの形で永遠に保とうとするより、滅びたものはまた生まれ変わるという発想。伊勢神宮の式年遷宮のような意識がある。
日本の伝統的な木造建築は、非常に解体しやすい構造になっていて、比較的容易に建物全部を解体することもできれば、構造材が傷んでくると、その部分だけを取り替えることができるという。構造から転生輪廻しやすくなっている。
転生輪廻させてもらえる建物は、建立当初に、命をこめて、またそこに住んだ人々の魂がこもっていると思わせるほどの感性・悟性にも訴える建物。
だから、文化遺産を建て直すときには、建立当時の職人たちにも負けないくらいの匠の技と魂をこめないと許されない。
法隆寺金堂などの復興を果たし、最後の宮大工とよばれた故宮岡常一棟梁は、こう述べている。
「均一の世界、壊れない世界、どないしてもいい世界からは文化は生まれませんし、育ちませんわな。職人もいりません。なにしろ判断の基準が値段だけですからな。
法隆寺や薬師寺に参拝に来ても、すぐに帰らんとよく見てくださいな。これらの建物の各部材には、どこにも規格にはまったものはありませんのや。千個もある斗にしても、並んだ柱にしても同じものは一本もありませんのや。よく見ましたら、それぞれが不揃いなのがわかりまっせ。どれもみんな職人が精魂を込めて造ったものです。それがあの自然のなかに美しく建ってまっしゃろ。不揃いながら調和が取れてますのや。すべてを規格品で、みんな同じものが並んでもこの美しさはできませんで。不揃いやからいいんです。
人間も同じです。自然には一つとして同じものがないんですから、それを調和させていくのがわれわれの知恵です。 」
「大きな仕事は人の考えを無視して、支配する力だけではできないんですな。もしそうやったとしても心のこもった仕事はできません。心のこもった仕事をせな、建物は美しゅうないし、長く持たせられませんな。それでは木の命を生かすことはできません。」
はじめに、都市化を「自然美を一部壊して、造形美に置き換える変化」と定義してみたけれど、日本人の都市化とは、どちらかといえば「自然美は一部壊すかもしれないけれど、そのかわり別の自然や命が宿る変化」という認識だと思う。
人の手によって作られた存在であるけれど、そこに神様がいると思わせる建物。樹齢何千年の檜の大木で作った建物には、自然と神様が住んでいると日本人は思ってしまう。そんな建物は大切にされる。壊れても建て直してくれる。生まれ変わる。
だけど、現代都市は、狭い空間をいかに広くつかうかという命題を抱えてる。木造建築では強度の問題もあって、高層建築はつくれない。自然素材だけでは限界がある。
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この記事へのコメント
日比野
美月
以前から記事を拝読申し上げておりました。
日本人の美意識において、現代都市と伝統的感性は融合するか…、とても興味深い考察と思い、続きを楽しみにしております。
日本の古い建築については、くっきりとした造形美の誇示というよりは、陰影の空間や間合いを取る気配の方を、より強く感じますね。
数学的な面では、西洋は黄金比、日本は白銀比という話を聞いた事があります。これはこれで、長いお話になるそうですが…
浅学の身でありますが、どうも日本人は、都市なるものに関しては、伝統的に
「いつも何だかゴチャゴチャな町」を作ってしまう傾向があるのではないかと思います。いわゆる、駅前の商店街とか、下町とかですね。
でも奇妙に、そうして出来たゴチャゴチャの下町らしいところがまた、すごく人を魅了する粋なオーラを放っている、そういう面白くクダけたところも、日本人の作り出す都市の特徴かなと思っております。
日本人は、縄文時代も含めたらおよそ一万年ぐらいの歴史の蓄積もありますし、美に対する感性もまた、一筋縄ではいかないものなのかも知れません…
江戸屋
現代人である我々は、大量生産される無機質な陶器製品に親しまされているが、素朴で、歪で、土器とも呼べるような形の器には、本能的な癒しを覚える。
また、歪さ故に、美しいとか愛らしいとか逞しいとか、なにか特別な感情を抱いてしまう。そもそも、モノに「存在」や「魂」を感じてしまうというのは、モノが我々に何がしかの感情を抱かせるから、相手を能動的な存在だと認識してしまうのだろう。西洋の哲学者に、「存在が言葉になろうとする」といった人がおられるが、我々の言霊信仰だってそうだといえる。
(どうも我々日本人は、受信しやすい体質にあるようだ(笑))
器で語るともっとも歪でダイナミックなのは縄文土器。これが、我々の独特な美意識の原点かもしれない。
芸術は爆発だぁ!の岡本太郎氏だって、インスピレーションの源泉は縄文時代にあると語っていた。
脈々と受け継がれてきた我々の美意識。
我々の美に対する感性は一筋縄でいきそうにない。
いつか、縄文から遡って考察してみるのも面白いかもしれない。