心の言葉 (思考は言語と言葉によって構成される 最終回)

思想の演算式は実部も虚部もひっくるめて演算式をたてる。目に見える事象を実数項として。心でしか認識できない抽象概念を虚数項として。

それらの項が各々回路接続され、思考の演算式ができあがる。

リアリストは実部演算式が中心で直ぐに役立つ論理演算を好む。役に立つということは目に見える結果が出るということ。論理演算結果としては、実数が答えに欲しい。

それに対して哲学者は虚数部も扱う。見つけた公式は、いつなんの役にたつのかは、その時はわからない時もある。物理学者と数学者の関係にも似ている。

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お花畑だと揶揄することは自由だけれど、いつ役に立つか判らないが、その予想が美しくて、いつか日の目をみるだろうと皆が思う論理演算をしている哲学者と、その演算式は間違っていると証明されているのに、まだ部分的に正しい場合があるとか主張する人は分けて考えたほうがいい。特殊条件でだけ成り立つ公式は美しくないし、汎用性はないから。

演算式をたてるのは思索者の自由。でも証明されないと真実とは認められない。

思想の証明は、思想を奉じた人や国がどういう結果をもたらしたかで証明される。

学術誌に証明を郵送した後、速達ではなかったと告げる家政婦に博士は応える。

「誰よりも早く真実に到達するのは大事だが、それよりも証明が美しくなければ台無しだ。・・・本当に正しい証明は、一分の隙もない完全な強さとしなやかさが矛盾せず調和しているものなんだ」

きっと、思索者の思考を奉ずる人々が、完全な強さとしなやかさを持って調和して生きるとき、その思想に正しい証明が与えられるのだろう。

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アウグスティヌスは、心の言葉こそが真に言葉と呼ぶにふさわしいといった。心の言葉を項にしない思考の演算式は、すでに真実からは遠いのかもしれない。

真の思考とは、心の言葉を項として論理演算式を組んだり、公式を発見する試みであり、思考は言語と言葉で構成される。

その出発点は心で何をみたかということなのだ。

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この記事へのコメント

  • 日比野

    ナルト様、しばらくです。お褒のお言葉、過分に存じます。
    透明感ですか。うれしい限りです。最近のエントリー、特にこのエントリーはそうですが、思索して出てきた思考を遠くから眺めている自分がいるのを感じます。自分で書いているくせに自分のものという気がしないのです。ですから、エントリーの内容についてこう主張されるのですね、とコメントされると逆に違和感を覚えます。不思議ですね。
    2015年08月10日 18:18
  • ナルト

    日比野さま、こんにちは。ご無沙汰しておりました。
    話題も、文章もなにか透き通ったような感じがします。
    数式なども言葉の一種だと考えると、通常の言語では言い表せない「心の言葉」を持つ人々にとって数式はありがたいものだと思いますね。それとは別に絵画や書道や、華道や・・・・心の言葉の表現形態は人間の精神的な活動とイコールといって良いくらいの関連があると思います。
    逆に、言語としての言葉に囚われすぎた人々は、「愛」とか「平和」とか「平等」とか「人権」とか・・・言葉に振り回されるのでしょう。
    心の言葉を持たない人々、それは、自己と向き合うことができず、そのエネルギーを他者を貶めたり攻撃したりすることで正当化ないしはごまかしている人々で、この種の人々がある言葉を使うと、その言葉は限りなく陳腐化されていくというのは、悲しいですが現実ですね。サヨクの人々だけとは言いませんが、彼らに多く見られる傾向です。
    彼らの文章に、貴君のそれに見られるような透明感も、格調もありませんね。
    2015年08月10日 18:18

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