中ほどの道 (進歩と調和について考える 最終回)
発展を極限まで突き詰めると知の神に近づき、調和を極めると美の神に近づく。
どちらの神を求めるのかで文明の色合いが定まるけれど、現代世界の文明だと「知」と「美」の二つの神に近づくアプローチがとれる。
だけど、どちらかだけを求め、もう一方をすっかり忘れるとそれを破壊することにもつながる。
科学技術オンリーだと、環境破壊はもとより、心の調和を忘れてしまう。美の神から見放される。逆に調和オンリーだと、進歩が止まり、永遠に知の神に近づけない。
だから、どちらか一方に偏ることなく、中ほどを選び取るべき。釈迦の説いた中道思想を選択するのが一番いい。
釈迦は悟りを開いてのち、最初に説いた教えが苦楽中道だった。王子の何一つ不自由のない環境でも、厳しい修行によってでも悟りは得られなかった。真理の道は両極端を捨て、中ほどにあると説いた。
進歩と調和も多分同じ。両者の真ん中のところに真実の道がある。
人気blogランキングへ
この記事へのコメント
新快速 播州赤穂行き
こんばんは。久しぶりにコメントさせて頂きます。中道の話、「進歩と調和の折り合い」の問題、非常に興味深く拝見させて頂きました。私は最近は政局にかかりきりになっていたのですが、「格差是正」の問題もこの観点から考えることができるような気がします。資本主義の原理に従えば、「利益極大化」、つまり「進歩の最大化」を目指すことを「是」とするため、それが小泉・竹中路線、「新自由主義」と呼ばれる、市場原理主義の論拠となるのですが、それは同時に「調和」の視点を捨てることになる。「調和」は「カネ」では換算できないのでどうしても資本主義の原理に従えば従うほど、無視されてしまう。「環境」とか「幸せ度」とかも同じです。日本はこれまで「調和」を重視しすぎたために、ややもすれば「進歩」をおざなりにしてきた面があった。
日比野
「理性」と「感性」の統合の件、ご指摘のとおりです。
文明の性格付けの見方にはいろいろあるかと思うのですが、「知」と「美」、寛斗様の二分法では「理性」と「感性」ですが、どうも西洋文明を「知の文明」の一方の極だとすると東洋文明はどちらかといえば「美の文明」であって、知の極に対する、もう一方の極として存在してきたのでは?と認識しています。その中でも日本文明がどちらかに偏ることなく両者を統合していける可能性があると思っています。
リンクの件ですが、お断りせずに勝手にリンクして申し訳ありません。今後ともよろしくお願いいたします。
余談ですが、もしかして寛斗様のハンドルネームはイマヌエル・カント由来ですか?(^v^)
寛斗
「知」と「美」、もしくは「理性」と「感性」という対立項を、西洋と東洋との区分けに転用する認識は、私も以前から持っていたものですし(無論、例外もまたありますが)、また、こちらでの生活で経験的に確認する機会も少なからず持ちました。この件は話し出せば長くなるので端折らせて頂きますが、一つ言えることは、当の二分法は、東洋と西洋とを考える際、大まかな方向性を与えてくれるということです。
さて、いわゆるペンネームですが、ご指摘の通り、あのKantに由来します。彼の名前を汚すのではと恐れておりますが、あらゆる哲学者の中でカントを、私は彼の哲学の緻密さと深さ、そして彼のバランスのとれた人間性ゆえに、最も尊敬しております。
そこから勝手に使わせていただいている次第です。もしも日比野さんがカントの崇拝者でいらっしゃるならば、どうかご容赦のほどを(笑)。
あきつ
真ん中へ
よいエントリですね。
三四郎
哲学的なエントリーにいささか気遅れしつつ拝読させていただきました。
「進歩」と「調和」は自動車のアクセルとブレーキに似ているな、と感じました。共に一方だけではシステムとして機能不全を起こします。
>進歩と調和も多分同じ。両者の真ん中のところに真実の道がある
要はバランスということでしょうか。それは私も共感します。皮相的な感想ですみません。またときどきお伺いさせていただきます。