文化芸術が世の中に奉仕するとき (コミケと文化について考える 最終回)

作家本人は、自分が表現したいものを描きたい。だけど作品を売って、食べていかなくちゃならないから、出版社の意向に沿うようになるのは仕方がないこと。出版方針には逆らえないし、編集者のいうことも聞かなくちゃいけない時もある。それが嫌ならパトロンを見つけるか、別のバイトをして食いつなぐしかない。

だけど、本人の意図を超えて、作品が世界に広がるときがある。そこまでいくと作品は本人の手を離れ、世界に奉仕する芸術になる。

多分それは、芸術を知らない人にも芸術と判るほどの芸術。天才はその分野に精通するしないに関わらず、それと分かるもの。

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サッカーで、東京ヴェルディの名波と浦和レッズの小野を比較して述べた有名な言葉がある。

「名波のプレーを見ると、少しでもサッカーを知っている人間なら彼が天才だと分かるんだよ。でもな、伸二のプレーを見るとサッカーを知らない人間でも彼が天才だと分かるんだよ。」

普通、芸術作品を世にだすとき、その作品の対象とする市場は芸術の分野。でも天才はその領域を超えて芸術以外にも影響を与えていく。

文化芸術そのものには意図はなく、理解され、受け入れられるときには自然に受けいれられる。

スタートには、プロもアマもない。それにただ、商売が絡んだときからプロとアマの区別が始まる。

プロは有る程度市場に受け入れられなくてはならないから、あんまりマニアックなのは作れない。アマはそんな制約はないから、自由な表現が可能。その表現の土壌がプロを支え、新しい発想を生む。

プロにしろアマにしろ、本人の手を離れてしまう程の作品をどれだけ生み出せるか、そしてその総体が国の文化力なのだと思う。

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この記事へのコメント

  • 深波

    ずっと読ませて頂いてました。とても面白いシリーズでした!
    詩でも、古代の東アジア全体に広がった「漢詩」とか、近代欧州では「ソネット」、最近では「俳句」スタイルが国境の壁を越えて流行したことを連想してしまいました。
    天才とか、国境を越える型とかいったものは、一見特殊・個性的でありながらも、普遍に訴える力とか通じる表現とかを持ってるのかも…
    お金が絡むと、常々、問題が微妙になるみたいですね(汗)
    2015年08月10日 18:18
  • 日比野

    深波様、コメントありがとうございます。
    俳句スタイルは結構海外で評判よいみたいですね。YOUTUBEかなにかで、フランスでしたか、素人が詩を始めようとしたら、まず俳句スタイルでやるのがいい。とかいんたびゅーにこたえていたのを見た記憶があります。
    日本文化も金が絡む絡まないに関わらず、いいものはどんどん海外に普及していってほしいものですね。
    2015年08月10日 18:18

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