コミケは誰のものか (コミケと文化について考える その3)

コミックマーケット、通称コミケは、夏と冬の年2回行われる日本最大規模の同人誌即売会。昔は晴海でやっていたんだけど、規模が大きくなりすぎて人員収容の問題が出てきて、今は有明の東京ビックサイトで行われている。

コミケの参加者は自分で作った作品を売ったりもするけれど、お目当てのブースでお気に入りの作品を手にいれる楽しみもある。互いに売ったり、買ったり。交流の場。

開催期間は全国から物凄く人があつまる。のべにして、40万人から多い時では50万人を超えるという。

ここまで集まると当然経済効果が生まれてくる、下手な花火大会なんかより全然凄い。

1994年におきた幕張コミケ追放事件では、大量のキャンセルを出した影響で、周辺の宿泊施設や飲食店に甚大な被害がでたという。

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同人誌市場であっても規模が拡大すると、描きたいものを描いてもそれを喜んでくれる人が出てくる。商売を抜きにした、一種の特殊市場が成立してくる。

プロもそこに顔をだし、自分が本当に書きたいものを描いてくるようになる。昔はコミケで名を売って、出版社の目にとまりプロデビューという流れがあったけれど、今は逆にプロが同人誌を出す逆の流れもあるという。「プロ同人作家」という言葉もあるくらいだ。

こういう市場では、金とか利益とかなんて、もはや二義的なもの。自分が描きたいものを描いて、それを喜ぶ人がいて。喜ぶ側の人もその作品に触発されて自分で同人誌を出すようになったりする。創作活動と購買活動が連鎖的かつ双方向的になっている。能動的購買活動になってゆく。

能動的購買活動は自分が購買者であると同時に、発信者として相手に何らかの影響をあたえる。ファンから次回作を期待される、頑張る、また喜ばれる、そんな循環布施の商品の市場。

コミケはそんなニーズから発生した必然の場なのかもしれない。

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だけど、作品が世の中に受け入れられるに従って、作品は個人のものから、社会のものへ、ひいては国や世界全体の共有財産になってゆくもの。

一定以上のレベルの作品になると当然市場が発生するわけだから、商売が絡んでくる。どんなに素晴らしい作品でも個人だけでは世の中に普及させるのはとても時間がかかる。

今のように時代の流れが早い社会だと、すぐに埋もれてしまって流されてしまう。やがて再評価される場合だってあるけれど、忘れられてしまう可能性のほうがうんとある。その意味で、商業主義はまったくの悪だというわけじゃない。

儲かりそうだから、広く売って利益をあげるものと、世の中の共有財産だから広く世の中にいきわたってゆくものとは、分けて考えるべき。

つきつめていくと、芸術や文化って誰のものか、という問い。

他国にも影響を与えるほどの文化や芸術作品は、国家戦略兵器として使える、と考える人はソフトパワー論に従って戦略的に使おうとする。作家本人の意図に関わらず。

つまり、昔から言われていることだけど、とどのつまり、芸術は何に奉仕するのかという命題に突き当たる。

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