アマの土壌とプロの作物 (コミケと文化について考える その2)
世にだせる為の壁というか最低水準というものは確かにあるんだけれど、この水準は、市場動向や対象市場でいくらでも変動するもの。
もし、プロ作家にパトロンがいて、何でも好きなものを描いても世に広く送り出せるとしたら、どんな作品をだすのだろうかと考えると、倫理上の問題を別とすれば、多分描きたいものを描くだろう。
制約がないから、好きなことができる、発想の次元ではプロとアマの垣根がなくなる。
アマの最大の利点は、自由なこと。いくらでも基本パタンを外してしまえる。プロは最低限の基本は外さないし、外せない。読者を意識しないといけないから。
昔、料理の鉄人という番組があったけれど、鉄人道場六三郎が素人と対決した後、いつもこんなコメントを残していたことを覚えている。
「プロなら相手が何をやってくるか大体判りますが、素人さんは何をやってくるか判らないですからね。。」
基本は守るプロと、簡単に基本を外せる自由を持つアマの違いをこのコメントは端的に示してる。
だけど、いくら基本でも延々と繰り返したり、知れ渡ったりすれば、やがて飽きられるもの。
準主役とか脇役キャラが唐突に主役に絡んで、昔話をしたりするシーンとか。死亡フラグキター(゚∀゚)!!、なんて掲示板に書き込まれたり。
新しいパタンはアマチュアから起こる可能性が高いし、起こっているから、まったくないと後々困ることになる。
イメージとしては、アマチュアの土壌にプロの作物が育つ感じ。アマチュア同人誌からスタートして、プロデビューを果たした作家は沢山いる。アマの土壌がプロの作物を育てている面があることは否定できない。
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