きちんとしてること (コミケと文化について考える その1)

今日から4回連続シリーズで、「コミケと文化について考える」をエントリーします。

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漫画やアニメが日本に広まってから随分になる。いまやドラえもんやポケモンは世界中で受け入れられ、日本のポップカルチャーの代表作にまでなった。

商業誌だけでなく、アマチュア誌の祭典であるコミケも盛ん。

プロとアマの差とは何に現れるのだろうか。

一義的にはその作品が商売になること。そのための必要条件として、作品のレベルが一定水準以上あること。

商売になるということは、有る程度売れることが条件になるから、市場に受け入れられるものでなくちゃならない。そのためには一定数以上の人に買ってもらえるものでないといけないし、読むに耐える最低限のレベルは必要になる。

だからプロの作品には一定以上の水準があるものの、内容も当たり障りのないものになりがち。ぶっとんだものはなかなか世に出せない。たとえ作者が出したいと思っていても。

これがアマチュアの世界になると結構自由。オタク的になるに従って、興味範囲の指向性がどんどん高くなって、専門性も高くなる。だんだん周りは付いていけなくなるけれど、商売関係なしだから、ネタの豊富さや深さ、発想のバラエティさなどは制約されない。その代わり広く世には普及しにくい。

だけど、読むに耐える最低限のレベルっていうのも結構重要な要素。これがどこまであるかで市場にだせるかどうかの指標になる。

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島本和彦の漫画で、世の映画がつまらなかったから、アマチュア映画祭の応援団長を引き受けて、延々とアマ映画を見た挙句、プロの良さを再認識するという話があった。

主人公の漫画家、炎尾燃の台詞が印象深い。

「ああ・・・いいなあ・・・内容なんて・・・なくても、全然OKだ。きちんとした構図で・・・きちんとしたタイミングで・・・きちんと声が聞こえて・・・きちんとピントがあってるだけでこんなに癒やされるなんて、びっくりだ!!」

島本和彦の言葉を借りれば、きちんとしてるということは、それだけでありがとうということなのだ。

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