日比野庵のコメント欄に関する見解

前回の「日本的価値観の構造」のシリーズエントリーでのコメントについて色々とありましたので、私の現時点でのコメントおよびTBに関する考え方をここで整理しておきたいと思います。



1.日比野庵設置の動機

日々のおもいつきを述べさせていただくと同時に広く皆様から教え伺いながら、新しい考えや発見をしたいというのが主な動機です。今までは単にブログ巡回していただけでしたが、自分でも発信してみたくなったのです。

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2.コメント欄とTBの定義

1.の理由からコメント欄やTBはフリー書き込み可能を原則としています。

TBは現在承認制にさせていただいていますが、もちろん関係ないTBや宣伝TBが飛び込んでくるようになったからです。



3.議論とディベートの違い

議論は建設的な考えの発展の手助けとなるためにあるもので、ディベートとは異なります。ディベートとは、「相手を打ち負かすための技術」であって、最良解を求めるものではありません。
ディベートでは「質の高い議論に必要な能力を、ほとんど身に付けられない」欠点を持っていますから、日比野庵の主旨とは反します。

これらのディベートに関する見解は、下記サイトで知りました。今のところ、この考えを支持しております。

議論やディベートと、論理的思考との関係」 http://www.st.rim.or.jp/~k-kazuma/TH/TH185.html



4.日比野庵エントリー記事の作成スタイル

私のエントリー記事、特にシリーズものはそうですが、記事を週末に一週間分書き上げて、パラグラフごとに毎日エントリーしていく方式をとっています。でないと私の生活サイクルでは毎日更新など不可能だということと、一度に大量の文章をアップしても読んでいただく方も大変ですし、一度に多くの論点について述べるのも不適切ではないかと考えているからです。

平日は何をしているかというと、翌週のエントリーの記事集めや、細切れ時間を使って考え事をしています。ですので、平日にコメントの返信を、特に長文になるような返信は非常に辛いのです。コメントは読んだ瞬間に内容が分かる文章であればあるほど助かります。(自分勝手で申し訳ありません。)

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5.今回の事例検証

今回のエントリーで罵愚氏とコメント欄にて、やりとりがあった訳ですが、私にとってのデメリット面があまりに大きいことを鑑み、残念ながら退場処分とさせていただきました。

1.~4.までの前提を下敷きに、今回問題となったコメントのやりとりを具体例として検証してみます。

※ 正直、私にとってこの作業はとても苦痛なのですが、これまでの思考プロセスを明らかにする意味で、あえて行ってみます。



 A)  日本的価値観の構造・・・その1
 まず、このエントリーで私は、「日本的価値観はハウルの城のように建て増し構造ではなかろうか」と仮説を設定しています。

 この時点では特にコメントはいただいていません。


 B)  日本的価値観の構造・・・その2 
 このエントリーではA)を受けて、「価値観を建て増し構造にしたときのの利点とその理由」を述べています。

それに対する罵愚氏から以下のコメントをいただきました。

+罵愚氏のコメント
「建て増しの論理の、建て増しが許されるという根本的なルールについては、建てなおしたり、撤去することはできないのですか?つまり、神道に教義がないのが原因といいますが、教義を尊重する儒教とか、キリスト教とか、イスラムに席巻されない理由は、建て増しの論理とどう折り合いがつくのでしょうか?」


●ここで彼は「建て増し思想」が「根本的なルール」であると規定しています。

私がここまでのエントリーで述べているのは「日本的価値観が建て増し構造を持っているという仮説とその利点および建て増しできる理由」だけです。根本ルールと規定している訳ではありません。

私は「建て増しできる理由は教義がないから」と述べましたが、彼は建て増し思想が根本ルールだと規定した上で、「教義を尊重する儒教とか、キリスト教とか、イスラムに席巻されない理由は、建て増しの論理とどう折り合いがつくのか?」と質問しています。

ここで問題になるのは、彼が「教義を尊重する儒教とか、キリスト教とか、イスラムに席巻されない理由」を彼自身が自分で答えていないことです。

なぜ問題かといえば、私は「建て増しができる理由」を述べているだけであって、儒教とか、キリスト教とか、イスラムに席巻されない理由は何処にも述べていないからです

彼が「席巻されない理由」を持ち出すのであれば、その論証責任は彼にあります。

しかも、その自分で説明するべきである「席巻されない理由」を主語にして、私の「建て増しの論理」とどう折り合いがつくのか? と、私に質問しています。これは質問の意味を相手に考えさせ、さらに答えさせる質問です。

私としては、理由から考えなくてはならず、しかもその理由が彼の意図する理由でなかったら、更に何度もやり取りしなければならなくなります。ほとんど読心術の世界です。

私はこの部分で非常に時間を取られました。人によっては、当然「席巻されない理由」とは何か?と問いただす人もいらっしゃるかと思います。ただ、私は、あまりこの類の確認は好まないので、スルーすることが多いです。なぜ好まないかといえば、こうなるケースが多く、いつまで経っても終わらないからです。


結局、こう回答しました。

-日比野の回答
「ご質問の件ですが、さきほど8/29付でエントリーした「カルシファーと防人」に関連します。建て増しが許されるということすら、まだ根本ルールではなく、仮の姿という感覚だと思います。よって立て替え、建て増しは、カルシファーがいるかぎり、自由自在です。

この日本人的感覚からすれば、キリスト教やイスラム教でさえも、宗教原理ではなく、一なる神から分かれたひとつの顕れとみてしまいます。キリスト教やイスラム教の正当?な信者からみれば、とんでもない背徳者にみえるかもしれません。

どんな教えであっても一なる神から分かれたひとつの顕れとして扱いますから、必要な人が必要に応じて入信すればよい。また入信した人でさえも、それらの宗教原理に従って生きようとはするのでしょうが、日本社会の価値観を壊すところまではしない。そんな感覚です。(破壊活動までいって初めて邪教扱いになります。結果がでるまで、邪教判定しない甘さがオウム事件を生む遠因にもなっている面もあると思いますが、ここでは触れません。)

ですから、いつまで経っても、キリスト教やイスラム教には席巻されることはないと思います。

どちらも本来は一なる神から分かれた存在ですから、どちらかが正しいということはなく、どちらも正しいとなります。

その意味では、キリスト教やイスラム教も日本に入ってきた時点で既に本来のキリスト教やイスラム教ではなくなっているといえるのかもしれません。 」



●まず、「建て増し思想」は「根本的なルール」ではないと確認した上で、私なりに、「教義を尊重する儒教とか、キリスト教とか、イスラムに席巻されない理由」を、日本に入ってきた時点で、教義そのものを絶対的なものではなく、一なるものが形を変えたものに変容したからだ。それゆえに建て増し構造が可能なのだ」と回答しました。

一番肝心なのは、私が規定した「教義を尊重する儒教とか、キリスト教とか、イスラムに席巻されない理由」が彼の意図するものと同じかどうかということです。

本来は、まずここの部分が確認された上でなければ、議論は進められません。


 C) 日本的価値観の構造・・・その3
 このエントリーでは更に建て増し構造の内部構造に言及し、「建て増し構造の中心には教義ではない存在のカルシファーがいて、それを天皇が守っている」という論を立てています。

これに対する罵愚氏のコメントはこれです。

+罵愚氏
「前回に引きつつづいた質問をつづけさせていただきますが、他者から委嘱された動機をもとに増改築が行われるとすれば、他者が不在の時期は建設は中断しないと、あなたの説明は整合性を失いませんか。孤立の時期の、内部生産を、どう説明するのでしょうか?」


●前回の私の回答である、「教義を尊重する儒教とか、キリスト教とか、イスラムに席巻されない理由」が彼の意図するものと同じかどうかには、全く触れていません。私の回答は果たして、彼の意図に合っていたのでしょうか?

そして彼は、更に質問を投げかけてきます。しかし、その質問内容がまた意味不明なのです。


・「他者から委嘱された動機」とはそもそも何なのでしょうか? 誰が他者で、何の動機を、どのような条件下において委嘱するのでしょうか?

・「他者が不在の時期」これも意味不明。「他者から委嘱された動機」がきちんと定義できない以上当たり前です。

・「あなたの説明は整合性を失いませんか?」上記が不明の段階では、私の説明のどこの部分を指して、どう整合性がないのかということから推定しなければならず、とても回答できるものではありません。

・「孤立の時期の、内部生産」これも何を示しているのでしょうか? 鎖国の時期の文化興隆?と考えられなくもない(実際そう解釈しましたが)ですが、あいまいな表現です。


この時点で語句の意味を問いただしたりとか注意とかされる方がいらっしゃるかとおもいます。私もそうすべきだったかもしれません。ここでも一応、私なりに考え、答えました。やはり、物凄く時間を取られました。


-日比野の回答

「このエントリーでも述べていますが、増改築の主体性はカルシファーが握っています。「ハウルの動く城」でもソフィーの為に、壁?だったところからソフィーの部屋を作っています。ただ全く新しい材料を外から持ってきたわけではありません。

新しい材料や部屋を持ってきて建て増しすることを持って増改築と定義するのであれば、仰るとおり、他者が不在の時期は建設は中断されます。

日本的価値観の構造物は、おそらくそのときは、現有材料でもって、もっと住みやすいように、自在に内部の作り変えをしているわけで、それが「孤立の時期の内部生産」にあたるのではないかと思います。」



●質問の主意が不明ながらも、

「他国の異種文化が入ってくる度に、日本の価値観を都度建て増しするという論であれば、鎖国の時期は建て増しできない筈だ。しかし鎖国の時期には、ひらがなや浮世絵などの日本独自の発明や文化があった筈。これらは建て増しではないのか? だとすれば当初の説明とは整合しないではないか」

という意味だと解釈しました。

たとえ、この解釈が正しかったとしても、こういう質問は論理的矛盾を突く形式のもので、ディベートでは良く使われる手法です。建設的議論を行うのであれば、この部分は例外扱いなのか? だとすれば、なぜ例外になるのか? こういう理由だからではないか?といったコメントになる筈です。

私は、当惑しながらも、「鎖国の時期の日本独自の文化や発明は、内部構造の変化であって、建て増しではない。よって整合性は保たれている。」と回答しています。

ここでも、建て増しの定義を何とするかで議論の土俵が変わりますので、わざわざ「新しい材料や部屋を持ってきて建て増しすることを持って増改築」と定義します、と断っています

先の定義についてもそうですが、この定義で良いのかどうかを確認することが、次の議論に入る前提になります。私はそう思っていました。



 D) 日本的価値観の構造・・・その4
 このエントリーでは原理がある思想、特に宗教思想などは、時代性と賞味期限があって、時代が下って教えがついてこれない場合があるという指摘とその時に取る行動を述べています。

 ここでの罵愚氏のコメントは先の増改築の定義に触れることなく、更に質問を重ねます。ここでも、自分の言いたいことだけを主張(主張的反論)して、いきなり反論を求めてくるというディベート手法を使っています。付け加えるならば、自分の質問に相手は答えて当然だという傲慢さも垣間見えます。


+罵愚氏のコメント
「前回の「動く城」とかいう漫画を読んでいないし、興味の方向性がかぎられたレスをくりかえすのですが、あなたの規定している「日本的価値観の構造」って、なにも特別、日本にかぎった話ではなく、どこの国でも、そんなもんだよ、の反論には、どう答えられますか?

日本文化の核の部分に天皇制があるっていう説は、格別、珍しいものではなく、むしろありふれていると思いますが、中華思想にしろ、キリスト教やユダヤ教やイスラム教のような一神教にしろ、民主主義や社会主義にしろ、それに帰依したものは、ほとんど無条件、無差別に、そのグループの一員として受容されるわけです。しかし、万世一系の天皇との血縁のフィクションで成立している日本人の社会では、その血統を持たない人物は異端ですよねえ。入会の手続きとして、いままでのアイデンティティーの破棄を求められる社会だともいえませんか。在日朝鮮人の4世とか5世を念頭にしています。あるいは、キリスト教に比較してムスリムが受け入れられにくい状況があるとは思いませんか。

つまり、天皇制をカルシファーとやらにする構造は、ちっとも珍しいものではない。どこの国にもある現象だ。そのカルシファーの許容度の高低も、各種散在して、どのレベルなら特殊だということもない。どの文明だって宗教だって民族だって、核となるものは存在する。ただ、日本ではそれが天皇制だったというに過ぎないと思うけどなぁ~、」




● このコメントで彼は、日本の価値観の建て増し構造がどこの国でも同じだとして、私に反論を求めます。その上で持論を展開していきます。彼の立論のポイントと流れを整理してみます。

   a) 日本文化の核の部分に天皇制があるっていう説はありふれている。
   ↓
   b) どんな宗教にせよ、民主主義や社会主義にしろ、それに帰依したものは、無条件、無差別にそのグループの一員として受容される
   ↓ 
   c) しかし、万世一系の天皇との血縁のフィクションで成立している日本社会では、その血統を持たない人物は異端だ。
   ↓  
   d) c)の理由によって、日本人社会への入会の手続きとしては、いままでのアイデンティティーの破棄を求められる社会だといえる。
   ↓
   e) d)と同様にc)の理由によって、キリスト教に比較してムスリムが受け入れられにくい状況がある
   ↓
   f) a)からe)までの理由によって、天皇制をカルシファーとやらにする構造は、ちっとも珍しいものではない。どこの国にもある現象だ。


まったく論理が通っていません。

b)でどんな宗教・主義であってもそれに帰依すれば、無条件、無差別にそのグループに受け入れられるといっておきながら、d)ではそれを否定しています。

しかも、仮に、彼がd)で述べている見解が正しかったとしても、それは日本の価値観の特殊性を逆の意味(排他的である)で述べていることになり、最初で彼が述べている「価値観の建て増し構造なんて、どこの国でもそんなもの、」という主張を、自ら否定することになります。

つまり、彼のコメントには論理的整合性はなく、a)とf)だけが言いたかったということです。

であれば、a)とf)でいうところの価値観の構造が、日本と他国とでも何ら変わりないことを彼は論証していかなければならないのですが、全く触れていません。

ただ、b)とc)の前提が正しいとして、既に論理として二律背反している点に着目して、なぜそうなのかを考えていくと、別の見解が出てくるかもしれないとは思います。


で、こう回答しました。

-日比野の回答

「どの国も日本と同じく建て増しの思想構造ではないかとの御意見ですが、失礼ながら、私は違うと思います。私のいう日本の思想の建て増し構造は、たとえ対立する価値観同士であったとしても、共に共存できるという構造です。オシムのいうところの「アンビバレントなポリバレント性をもち、みんなを尊重するやり方」です。

他国の思想も同じ構造であるなら、そもそも価値観の対立抗争などありえません。アフガンでもキリスト教を布教できるはずです。中東アラブ、ヨーロッパなどは中世からあれほど侵略を含めた文化交流があったのにもかかわらず、対立が続いています。

もちろん各種思想も生み出される時などには他の思想の影響をうけたり、下敷きにしたりはします。それが原理までなり、国家や民族の価値観にまで浸透した後には、全く別の価値観が入ってきた時に当然衝突することになります。

その意味では、日本以外の思想構造は建て増しというよりは、建て直し、または棲み分けというべきで、簡単には繋がるものではないと考えます。

日本には思想・信教の自由があり、布教に対しても門戸を閉ざしているわけではありませんし、ムスリムが毎日メッカにお祈りするからといって排斥するわけでもありません。
日本人がムスリムになるかどうかは本人の自由であって、ムスリムになりたいと思う人が少ないだけでしょう。

キリスト教にせよイスラム教にせよ改宗には、相手のアイデンティティを消させる。貴殿の仰るところの同化を求める面は当然あるでしょう。思想の建物でいえば、、自分の建物に引っ越してきた住人の古い看板は下ろさせ、表札まで変えさせるというところでしょうか。

しかし、日本的価値観では相手にそこまでの同化を求めるようなことはしない。相手のアイデンティティを尊重する。看板も表札もそのままでいい。ジュビロのカレンにしてもレイソルの李にしても、日本人は彼らをみて、もうすっかり日本人だねぇと思うことはあっても、日本に住むのならとっとと帰化しろとか、日本名を名乗れ、とかつめよる訳でもありません。帰化するかどうかはあくまで本人の意思です。

思想の核になにがしかを置くのは何処の国でも同じ。それはそうだと思います。日本ではそれが天皇であることもごく自然なことです。(因みに天皇はカルシファーではなく、カルシファーの火を絶やさぬように守っている防人と定義させていただいてます)

しかし、なにを思想の核にもってくるにせよ、なぜ日本がこれほどの文化受容力を持っているのか、アンビバレントな思想にポリバレント性を持たせられたのか、棲み分けでなくひとつ屋根の下に形を保っていられるのか、これらは実に驚くべきことかと思います。



● このコメントで、私はまず、彼のいうところの「どの国も日本と同じく建て増しの思想構造を持っている」ということはないと断り、アフガンではキリスト教の布教ができないではないか、と実例を挙げます。その上で、彼が触れていない日本と他国との価値観の構造差について述べていきます。

まず、原理が確立している外国では価値観がぶつかり合うと、どちらがが自分のアイデンティティを消して、相手の価値観に飲み込まれる以外に繋がることはない。だから外国では価値観同士の衝突を避けるために、互いに不干渉な住み分け構造をとるのに対して、日本は衝突する価値観であっても互いを繋げてしまう。それでいて相手のアイデンティティを消させるようなことはしない。それが驚くべきことだ、としました。


それに対して、彼はこう反論します。


+罵愚氏のコメント

 「それってね、日本人の思い込みではないのかな~?ローマの七つの丘にも、長安や西安にも、おなじ現象は起きているんだが、あなたが目をそむけているだけのことじゃぁないの?
 誤解しないでいただきたいのですが、わたしは、異質を排除して純化する社会もあれば、許容する社会もある。たまたま日本は許容文化の社会なんだが、これって、けっして特殊でもなければ、珍しくもない。いくつもある許容社会のひとつにすぎない、という認識です。同質の文明・文化には前述の古代ローマや支那の歴代王朝以外にも、古代エジプトや近代までのアフリカ文明、新大陸の原住民たちやポリネシアの文明など、むしろ帝国の建設には、こちらのほうが常道だともいえる。」


● まずここで、ファウルがひとつ。「あなたが目をそむけているだけのことじゃぁないの?」

このコメントは人格攻撃に類するコメントで、議論とは全く関係ありません。人によってはこの時点で喧嘩になってもおかしくありません。※私はこの書き方に非常に心を乱されました。

ここで彼は、私が実例としてあげた、アフガンのキリスト教伝道の件について華麗にスルーして、日本はいくつもある許容社会のひとつに過ぎず、それは、古代ローマや支那の歴代王朝などにみられる。帝国の建設には許容社会の形態をとるのが常道だ。と論じます。

しかし、ようやくここで、彼の論点がすこし明らかになってきた観があります。どうやら価値観というものを国家体制における価値基準だと考えておられるようです。私はこの時点ではここまで明確に彼の論点を把握できなかったのと、物理的に時間がとれず、直ぐにはコメントできません/しませんでした。


ここで、いつもお世話になっているナルトさんから助け舟?(笑)を頂きます。

「日比野さま、こんばんは。TBありがとうございます。

日本のすごいところは許容しながらも守るべきは守り、現代に至るまで2000年、国を存続させてきている点にあると思います。

all or nothingでいくと、天皇制など当の昔になくなっているか、王朝が変わっているかしているはずで、これが守り通されてきたことは、日本が単なる許容だけの文明ではことが分かります。

上のコメントであげられている事例は、どれも遠い過去のことで、現代に至るまでの連続性はありません。日本はこの連続性を保ってきたのであり、そこには日本だけに起因する何かがあると考えても不思議ではありません。

特殊性を強調するあまり普遍性を見失うのと同じように、共通点や普遍性を追求するあまり特殊性を見失うこともあります。

貴君のエントリはその意味でバランスが保たれていると私などは感じます。」



● 私のエントリがバランスが保たれているかどうかは別として、正におっしゃるとおりです。なにより主意が読んだ瞬間に頭に入ってくるので非常にありがたかったです。


このナルトさんのコメントに対して、彼はこうコメントを付けました。

+罵愚氏のコメント
「ナルトさん、
 日比野さんは、「なぜ日本がこれほどの文化受容力を持っているのか」を論じているのであって、天皇制の連続を主張しているのではありません。あなたはちょっと話題の混濁があると思う。あなたの言うように、皇室の連続そのものが、日本文化の特徴というのなら、わたしは、そのとおりだと思います。
 しかし、そこで「文化受容力の連続」をいうのなら、昭和の時代が代表例ですが、いくつかのポイントで、それは破断しています。けっして連続してはいません。わたしがあげている例示が過去の遺物なら、現代社会のなかでの実例をさがぜばいいのです。それは、現在の国際社会そのものがそうですし、国連憲章もそうです。自由主義国と呼ばれている国々は、すべてそうですし、国際化された企業や組織の多くがそうですよ。つまり、「文化受容力の連続」を、体質としてもっている組織は、ありふれている。けっして、日本が特殊なわけじゃぁない。 」


● ここで私はようやく彼の論点を把握できました。彼は価値観というものを国家体制の統治原理としての価値基準という立脚点において論を進めているようです。

なので、これに対する回答はあまり心を悩ませずにすみました。


-日比野のコメント
「罵愚さん、
正確にいえば、私は「なぜ日本がこれほどの文化受容力を持っているのか」を論じているのではないですよ。

「文化受容力を、結果として持つところの価値観の構造」を論じているのです。
このシリーズの補追3あたりで少し触れようかと思っていますが、単に文化受容力を持つだけなら、なにも日本のような建て増し構造でなくてもいいのです。

たとえば、ローマでも、今の自由主義国でもいいですが、互いの価値観を尊重して、完全に不干渉にする代わりに、社会的規範となる価値基準だけ共通にして束ねるという統治方法がずっと簡単ですし、現在の国際社会は実際そうなっています。

価値観の構造には、社会規範としての価値観も、個人の信仰の部分の価値観もどちらも含むものですが、ローマであればローマ法、アメリカであれば連邦憲章にさえ従えばあとは自由が保障されます。自由ということは個人の心の中の価値観は不可侵であり、そこの領域ではポリバレント性は必要ありません。

アメリカでは、社会的にはアメリカ国籍をもっているが、心の中はムスリムだ、という個人の価値概念が成立しますが、日本は社会と個人の間の価値概念が分離していない。社会や個人の価値構造がポリバレントで多価の結合手をもっているからです。
そして、その結合手に様々な別の価値が結合している。たとえそれが、アンビバレントな価値であっても結合している。それが凄いのです。



 E) 日本的価値観の構造・・・その5
時系列的に先の「日本的価値観の構造・・その4」と入り組んでますのでさらりと流しますが、このエントリーでは、私は思想の耐用年数と対策、さらに日本的価値観の弱点についても少し触れました。

これに彼はこうコメントします。

+罵愚氏のコメント
「たしかに、わたしは罵愚なんですが(笑)、そのフレキシブルな使いやすさが日本の単独特許とするあなたの思い込みがバグではなかろうか?むしろそれは、ありふれた人類共有の知恵なんだがなぁ、」


どこがとはもう言いませんが、またファウルしています。日本的価値観の弱点の説明の例えで使った、ソフトの「バグ」という文言に反応してきました。

私は最初にエントリーの書き方を述べたとおり、シリーズの全エントリーを前もって書くスタイルです。この記事はこのシリーズの最初のエントリーの前に出来上がっていましたから、別に他意はありません。(証明はできないですが。)

まさかここに反応するとは思っていませんでしたので、コメントは最初にお断りをいれつつ回答しました。手前味噌かもしれませんが、誠意ある回答だったと思っています。


-日比野のコメント

「罵愚さん、
念のため、最初にお断りしておきますが、私はこのエントリーで罵愚さんとプログラムミスを示すところの「バグ」などと言っているわけではありません(笑)

確かにこのエントリーでは、「思想の建て増し構造は時代に即応したフレッシュな思想をいつでも使える利点がある」としていますね。説明不十分でした。失礼しました。

冒頭の文の引用元である、「日本的価値観の構造その2」では「その時代時代にマッチした、新しい思想や有用な考えを大きな抵抗なく直ぐ取り込めること。」としています。「大きな抵抗なく」です。

原理がないのですから、当たり前なのですが、通常、新しい価値観の適用、それも強制される場合は特にそうですが、大きな抵抗を伴います。宗教改革者が弾圧・迫害にあった例は、枚挙にいとまがありません。

社会、とりわけ個人になるほど価値観における原理はそれほど強固なものだと受け入れるしかありません。原理の出所が神だからです。

よって、原理がある価値観世界において、フレキシブルに思想を個人が使えるための条件としては、そのように「神」から許可を得るか、神を否定するしかなくなります。

ありふれた考えにするには抵抗が大きいと思います。 」




 F) 日本的価値観の構造・・・補追2
E)の後、数日彼からコメントが返ってこなかったので、ご理解いただいたのかな、と思っていたところで、このコメントをいただきました。


-罵愚氏のコメント
「なんとなくわかったような気持ちが半分と、ごまかされたような気持ちが半分なんですがね(笑)、つまり、こういうことかなぁ?宗教にしろ、文明にしろ、かれらは原理原則と呼ぶようなものをもっているから、そこに帰依するからには、最小限それを受け入れないわけにはいかない。たとえば、キリスト教なら洗礼を受けるとか、アメリカに帰化するなら憲法尊守の宣誓をするとか、東洋では清国のケースでは弁髪だとか、歴代の支那の王朝にもイスラムをはじめ一神教徒は移住している。ほとんど無条件にかれらは受け入れられているんだが、ただ、科挙を受験するときにだけは儒教への信仰を試される。やっぱり、原理原則の部分での葛藤は経験するわけだ。
 それさえもない、稀有な例が日本文化の根底にあるという主張ですか。」



● 開口一番「なんとなくわかったような気持ちが半分と、ごまかされたような気持ちが半分なんですがね(笑)」です。呆れる他ありません。これは、やはり彼がブログコメント欄をディベートの場であると思っている証左だと思います。ディベートをしたければ、ディベートを許可しているブログでやっていただきたいものです。

日比野庵ではディベートをするつもりはないので、皆様に、ここで公式にアナウンスするとともに、彼とのこれまでのやり取りを鑑み、レッドカードを出させていただきました。

やはり、ディベートでは建設的意見はでないものだと良く分かりました。

彼の言いたいことを理解するのに要する時間のロスと、あまり建設的な議論にならないことによるマイナス面があまりにも大きく、彼には悪いですが、日比野庵には出場停止とさせていただきました。

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6.まとめ

今回の件は非常に勉強になりました。私はコメントについて以下の知見を得たと思っています。

・ディベートではやはり建設的意見や思考の膨らみはない(多分)。主張的反論を互いにいくらやったところで平行線になる。

・コメントの書き方には一定の礼節はやはり必要である。罵詈雑言などもってのほか。

・コメントは相手に分かりやすく、簡潔にイメージが伝わるように出来る限り配慮すべき。あいまいな表現は相手の時間を奪うし、問いただすなどの行為が入るので非常に非効率。


参考までに、この罵愚氏はご自身のブログを持っておられますが、そこのTOPページに立ち寄り先のブログ(なぜかウェブリブログばっかり)と自分の書き込みやTBを拒否されているブログまで紹介しています。おそらくディベートを望んでいないブログから拒否されているものと推察します。

彼の文章の分かりにくさや彼と話す不毛さを指摘しているのは私だけではないようで、それらの指摘は他の方もされていらっしゃるようです。

http://bugswebblog.at.webry.info/200607/article_30.html
http://bugswebblog.at.webry.info/200608/article_26.html
http://bugswebblog.at.webry.info/200609/article_5.html
http://bugswebblog.at.webry.info/200707/article_16.html
http://comrade.at.webry.info/200707/article_1.html
http://sicambre.at.webry.info/200711/article_24.html

のコメントをご覧ください。


7.最後に

私が日比野庵を開設するにあたって、非常に参考になり、かつ記事を書く上での指針となっている記事をご紹介いたします。

レジデント初期研修用資料 :http://medt00lz.s59.xrea.com/blog/archives/2007/02/post_461.html

筆者はお医者さんのようで、その知性の輝きには目が眩むほどです。私などでは逆立ちしてもこのようにはなれませんが、他の方の参考になればと思い、紹介させていただきます。
※日比野庵の文体はかなりこの方の文体を参考(ほとんど真似)にしています。私の文章はそれでも全然駄目ですが。(笑)

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この記事へのコメント

  • 日比野

    ユーグン様、こちらこそ始めまして。コメントありがとうございます。
    以前より拙ブログにお越しいただいていたとのこと、ありがとうございます。
    今回の件で私も議論とディベートについて色々感ずるところがありました。
    これからもご指導いただければ嬉しく思います。
    2015年08月10日 18:18
  • 新快速 播州赤穂行き

    日比野さま>
    おはようございます。もしかしたら、実は僭越ながら私も彼とやり取りをしたことがあります。私も日比野さんほどではありませんでしたが、無意味に時間を取られたような感じがしました。でも、それは自分が公の場に主張を発信している以上、そういう意見とも対峙していかなければいけないと思っておりました。反対意見を無視するのはいかがなものかという思いがあったからです。同時に建設的でない議論に時間を取られるのもどうにかしたいと思っていました。しかし、私の拙い頭脳ではその両者の折り合いをどうつけるのかという解がわかりませんでした。本日の日比野さんのエントリはそれを「議論」と「ディベート」という切り口で、私の求めていた解を教えてくれたような気がしました。これまで長きに渡ってディベートに対応された誠実さと本エントリの明快な論理構築に改めて敬意を表させて頂きます。
    2015年08月10日 18:18
  • 【善】

    日比野様、お疲れ様でした。私も彼との議論をしました。できるだけきちんと議論しようと思っていろいろ書き込みましたが、議論によってその内容をお互いに豊かにしていくというものではなく、ただ議論のための議論であったように思いました。次からは相手にしないというつもりでおります。
    2015年08月10日 18:18
  • M.FUKUSHIMA

    突然のコメント失礼します。私もコメントを「拒否するブロガーたち」と名指しされている一人です。心中お察しします。
     ディベートと議論の違いは確かにおっしゃるとおりですが、ディベートはあくまでも相手を論理的に説得するための技術です。もし完成されたディベートであれば、あなたももっと説得されていたでしょう。実際、結論は一致しなくても筋は通っている相手と私が評価できる人もいます。彼の場合はディベートとしても問題があるから、最終的には拒否せざるを得ないのでして・・・。
     政治をネタにしていても、ブロガーはしょせん個人です。ブロガーとブロガーの間も、単なる個人と個人の付き合いです。コメントを拒否する理由は単に、「あなたと関わりあうのは嫌!」の一言でいいと思いますよ。あんまり狭量だと、確かに第3者から悪い評価をもらうと思いますが、どうしても嫌な相手は拒否してもやむを得ないでしょう。
    2015年08月10日 18:18
  • ユーグン

    初めまして。
    大変好感の持てる記事ばかりで、しばらく前からよく拝見していました。特に今回のディベートについては私も常々強く感じていて、何度か相手に対して「私はディベートがしたい訳ではない」と指摘をした事があります。当然と言えば当然ですがほぼ相手には通じないように思います。Web上でディベート(もどき)があまりに多すぎるこの現状は、今や個々の問題というよりも構造上の欠陥として解決策を模索する方がより建設的な気が最近はしております。そいういった意味で日比野さんの以前のエントリー「ネットの政治への影響力を検討する」と今回の話を重ね合わせ、興味深く読み入った次第です。

    ちなみに私はハウルの動く城は見ておりません(笑)。それではこれからも更新楽しみにしています。
    2015年08月10日 18:18
  • nobuQ

    日比野様、はじめまして。
    議論とディベートの違いについて興味深く読ませていただきました。

    私自身のブログ記事にも何度か彼の意図不明なコメントやTBが書かれる事があったので、彼の議論の仕方に問題があるのではないかと指摘し、丁寧に説明しましたが、結局彼は私の論理の穴を突くディベートに徹するのみで、全く自己反省の気配も感じられませんでした。
    相変わらず彼の他ブロガーに対する議論の態度は変わっていないようですので、私も今後彼には関わらないことにしました。

    今後ともよろしくお願いします。
    2015年08月10日 18:18

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