長かったこのシリーズも今回が最終回になります。おつきあいくださいましてありがとうございました。
日本人が無宗教といわれることについて。
日本人は無宗教とよくいわれるけれど、日本人の場合は無宗教は無信仰とイコールじゃない。
無宗教だから無信仰と考えるのは西欧の価値観でみているから。彼らは、その国家の社会的価値観と国民の個人的信仰の部分の価値観は全く別のものでそれぞれ不可侵と考える。
だから、個人的価値観の源となる宗教に属するのは当たり前になる。無宗教の人は個人的価値観を持たない存在、つきつめれば人間でないと思われかねない。
日本の価値観の建て増し構造は、「聖」も「俗」も繋がって一体化してる。日本の社会的価値観と国民の個人的信仰の部分の価値観は別個の存在じゃない。
だから、日本人であることが、そのまま「聖」の部分である個人的信仰の価値観の保持になる。
国家の社会的価値観と個人的信仰の部分が分離されていないという意味では、イスラム社会に似ているけれど、イスラム社会は、原理が規定され、それが憲法であり、個人の行動規定でもあるから、時代に即応した新しい思想を自由にインストールして直ぐに使えるわけじゃない。
それに対して、日本の価値観の構造は、輸入された各種思想のエッセンスを網羅し、かつ原理に縛られずに未来にむかって成長できる価値観。
つまり日本人は無宗教なのではなくて、わざわざ特定の宗派に所属する必要がない。日本人であれば、それがそのまま信仰になる。そういう価値観になる。
だから、クリスマスを祝って、初詣して、仏式葬儀ができる。時に日本教と呼ばれる所以。
日本は、国連がスタートさせた「文明の同盟」プロジェクトなどは、はるか2000年前から行っていたといえるのかもしれない。
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この記事へのコメント
罵愚
誤解しないでくださいよ。だからそれがいけないなんて、教訓をたれようというのではない。すくなくとも、夜郎自大に自分を宇宙の中心にすえない思考法ができるところは、それなりに日本人の長所だと思っている。
江戸屋
日本で哲学という分野が特に発達しなかった理由も特定の宗教に属さない理由も、我々の生活と哲学と宗教との間にある境界線が真にあいまいであるからだろうと、思いました。
日比野
罵愚さん、
大変申し訳ないですが、あなたとの議論は議論ではなく、ディベートになっています。これでは建設的意見は出てこない。ご自分の意見を主張したければ、ご自身のブログでおやりなさい。
このシリーズエントリーで、あなたとのやり取りを分析した結果、私が得るプラス面とマイナス面を比較してマイナスがはるかに多いと判断しました。
今回の書き込み内容もかんがみ、一発レッドカードです。ご退場いただきます。