日本人にとって、宗教思想は原理ではなく道具ではないかといったけれど、なぜそこまで柔軟になれるのかについて。
神と人との関係をどう考えるかに拠るような気がする。
キリスト教やイスラム教での神は絶対者。人は逆立ちしても神にはなれない。仏教は、修行の果てに仏になれると説くから、人が神にもなれるという立場。
日本神道も、祭られることで人が神様扱いになった事例もあるから、仏教に近く、人も神になるという立場だろう。
むしろ自然も含めた動植物や人の存在全てが神の顕れのひとつであり、神の一部でもあるという思想といったほうがいいかもしれない。仏教的にいえば、悉有仏性。すべての存在に仏性があるという考え。
日本的価値観、宗教観といってもいいけれど、日本の八百万の神々がいるとして、どうも人がどの教えを報じて生きてゆくかについてさえも、人に任せている観があるように思えてならない。教えで人を縛らない。
人の存在そのものを善きものと見ている。それどころか全ての存在を善きものとしてる。人を生まれながらに罪を背負っているという発想ではあり得ない。
あらゆる善きものが、それぞれに善きものを選び取り、さらなる善き世の中を創ってゆけ、という思想が根底にあるように思う。
だけど、人が全てを決めていく世界では、ともすれば神の存在を否定してゆくこともありうる。
それに対して、日本では、神を敬うという祭司を行い、常に心から神を敬う気持ちを忘れないようにするという伝統を培ってきたのではないだろうか。
神を忘れないための作法として、自らの穢れを祓い、虚飾を去り、その身そのままの自らの仏性・神性をあらわにして、自らが仏神の一部であることを常に確認することが大切である。それを確認できたのなら、その自らの仏性・神性に従って、善きものを選びとり、善き世界を創ってゆけ。こういう価値観ではないだろうか。
近代文明の原動力となった人間理性を否定することなく、神への信仰を両立させている。非常にバランスのとれた考えだと思う。
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この記事へのコメント
罵愚
それさえもない、稀有な例が日本文化の根底にあるという主張ですか。