日本の建築文化の思想への展開 (日本的価値観の構造 最終回)

宗教に教義という原理がある以上、異なる教え同士がぶつかるのは必然。ぶつからないのはそれぞれの教えで共通の教えの部分だけ。

たとえば、イエスの「自分のして欲しいことを他人に施しなさい」と 孔子の「己の欲せざる所、人に施すこと勿れ」とか、釈迦の戒「不偸盗戒、不邪淫戒」とモーセの戒「姦淫をしてはいけないこと、盗んではいけないこと」 とか。

違う教えであっても、部分でみたら同じ教えもあるから、そこだけなら相互理解は可能になる。

日本は本地垂迹で、神様レベルで存在ごと同じにしてしまったけれど、いまや他国では通用しにくい考えになってしまった。コーランには、キリスト教の天使が出てくるけれど、周知のとおり衝突してる。

これは一神教の限界なのかもしれない。だとすれば、本地垂迹も教えの各パーツレベルでするしかなくなる。

これはとりも直さず、構造を素材ごとに分解してまた組みなおす試みになる。

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東京大学の坂本功教授は、

 「建築物を解体して再利用するという発想は、西洋人にはない文化であり、これまでなかなか理解されることがなかったのです。ここにきてやっと、建築関係の国際会議で、建物の姿形が一度まったく失われて、素材レベルになったものを再度組み立て直しても、オリジナルであるとする日本の建築文化が認められるようになりました。」

と述べている。

建て増し型の思想構造がとれない世界では、思想の衝突を避け、相互理解をすすめるためには、各世界宗教や思想の構造を一旦素材レベルに分解して、それぞれで同じパーツだった部分を確認した上で、再度建築物を構築する試みが必要ではないだろうか?

そこまでして始めて、各宗教の教えの一部が時代に合わなくなった部分に対して、そこだけ新しいものに入れ替えるという考えが許容されるように思う。

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国連では、スペインとトルコが主導の下、2005年からさまざまな宗教、文化、国家の間の和解を促進することを目的にして、「文明の同盟(Alliance of Civilizations)」プロジェクトがスタートしている。

イスタンブールで、その「文明の同盟」報告書発表の際に行われた、アナン前国連事務総長のスピーチの一部を紹介する。

「まず第一に、問題がコーランやトーラー、聖書にあるわけではないことを再確認し、論証することから始めなければなりません。問題は信仰にあるのではなく、信者たちのうちにあるのです。ある宗教の信者たちが、別の宗教の信者たちに対してとる態度のうちにあるのです。我々はすべての宗教に共通する基本的な価値観、つまり思いやり、連帯心、人格の尊重、「人からして欲しいと思うことを人になせ」という大原則を強調すべきです。」

日本の建て増し型の思想構造をとれない構造において、衝突する思想の解消には、この素材からの再構築もひとつの手ではないかと思う。

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この記事へのコメント

  • 日比野

    >つづきです。

    もし、組み合わせでないと良さを発揮できないとすれば、やはり価値観は建築物のように構造
    をしっかりとつくって、がっちり固めておかないと、良さを発揮できかねないということになりますね。(すると構造をがっちりと作る外国の教えは、人間をすぐ間違うもの(実際そうなのかもしれませんが)として、あまり信じていない(性悪説)ことになる???)

    日本的価値観の建て増し構造は構造としては不安定な部類に属すると思いますが、それでうまくいくということは、使う人の理解力がそれなりに高いということでしょうね。

    とりとめなくなりましたが、とりあえず返信コメントさせていただきます。
    2015年08月10日 18:18
  • sadatajp

    教え通りにすればよいというのが教義の利点です。自分で時間掛けてあれこれ考えなくていいという利点です。自分であれこれ考えるという過程を経ていませんので理解力は期待出来ません。理解力を期待出来ないので単純に従えばそれで済むようキッチリと作っておかねばなりません。要するにマニュアルですね、教義は。
    教義無しは、何も教えず放り込んで「自分で見て学べ」というやり方でしょう。苦労するし不安定でもあるけどそれに釣り合う利点もあります。


    今回はすぐレス返しましたが、ゆっくりやりましょうね、お互いに。
    2015年08月10日 18:18

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