高い認識力とは、より広く、より多くの対象を的確に捉える力。理解できる力。
高い見識、高度な認識力とは、あらゆる立場からみても、あらゆる条件でみても確かにそのとおりと認められるような見解。文字通り高みに上って始めてみえる情景。中にはなんとも判断できなくて、やってみなくちゃ判らない事象ももちろんあるのだけれど。
知の性能でいえば、方位が広く、奥行きも深く、賞味期限も長いもの。
認識力は、対象をどう捉え、なんと意味づけしていくかということだから、その人の価値観や考え方に大きく左右される。だから認識力を高めるためには、自らの価値観や考え方そのものを高めていかないといけない。
それには、高次の思想に触れて、それらを自分のものとしていく必要がある。
内観して、思想を腑におとす。自分の心の言葉にする。自分の心に響く言葉というのは、自分の心にそれに感応するものがあるから。だから、心を磨いたり、心をゆたかにするということは、自分の心の言葉をどこまで増やしていけるかのポテンシャルを高めることにつながる。
言葉って、心の有り様の表現形式の一形態。心の言葉は、たぶん心のかたちを言葉という表現形態で「みえる化」したもの。
他にも絵画や音楽といった形態でも「みえる化」はできるとは思うけれど、必要とされる表現技術に高いレベルが要求されるので、あまり一般的ではないかもしれない。
「みえる化」できた心の言葉こそ、その人のもの。それはゆるぎないもの。
高次の思想に触れ、自らの心を磨いて、時にその一部を「みえる化」して、自分の心の言葉として自分のものにしてゆく内観。それが認識力を高めてゆく。
なにかの事象をぱっと見て、それが何であるか瞬時に認識できる力。その人の認識力は、その人の心の言葉に直結してる。
なぜかというと、事象はたんなる事象にしか過ぎなくて、それが「なにもの」であるかを示す名札がついている訳じゃないから。それが「なにもの」であると意味づけしてゆく材料は自分の中の心の言葉だけ。
知識を自分のものにしているということは、その知識を自分の言葉で一言ででも、長文ででも自由自在に表現できるということ。
言うなれば、10=5+5とでも、10=1+3+6とでも表現できるようなもの。
だから、たとえば、認識すべき事象が3だったとすると、自分の心の言葉となっている10を3+7と表現しなおして、その3の部分と同じではないか、などと照らし合わせながら認識していくことができる。
だけど、知識を心の言葉として、自分のものにしていないと、その一言一句どうりにしか理解していないから、自分の言葉で自由自在に表現できない。10は10としてしか認識していない。だから、そこに3という事象があっても10と3はイコールじゃないから認識対象外となってしまう。銀の匙がスープの味を知らないのと同じように事象だけが通り過ぎてゆく。
事象を認知するためには知識があればいいけれど、その事象を認識するためには心の言葉というデータベースがないといけない。
心の言葉は思考の出発点だから、ここがお粗末だとどんなに思索をがんぱっても、大した思考の演算式は得られない。がらくたの知識からは有益な思考は得られない。
知識自身は時間があればどんどん増えてゆくものだけど、認識力を高めるのは簡単じゃない。よく言われることだけど、単に本を読むだけじゃなくて、よく考えて、腑におとして、自分のものとすることは認識力を高めるには必要不可欠。
思想をしっかり咀嚼する。膨大な情報が溢れる今だからこそ必要なこと。万巻の書を全部読みきれるほど人生は長くはない。
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