精神の自由の確保 (民主国家とノブレス・オブリージュは両立するか その2)
正義もそうだけど、高貴な精神を作るためには、まず精神が変化可能な状態でないといけない。精神状態が固定されて、動くことができなかったら、高貴さには一歩も近づけない。
精神が固定されている状態って何かといえば、たとえば、深い悔恨や悩み事、時には嬉しい思い出に浸っているときのように、心が一点に囚われている状態のこと。執着で一杯のとき。
貴族が高貴であったり、そのように見えたりするのは、高い教養を持っていたり、上品なたち振る舞いをしているから。
それらは幼いころからの教育や上流社交界の場に出ることによって身に着け、洗練されていったもの。そしてそれらを可能にしたのは、十分な時間。
時間的余裕から生み出される趣味の洗練は、やがて上流階級全体に対しての厳格で高貴な作法となっていく。その結果、たち振る舞いも洗練され、それが精神にも影響をおよぼして、それに従った精神を作ってゆく。
貴族は普通金持ちなものだから、極端な話、生きるのにあくせく働かなくていい。必然的に自分の自由になる時間が沢山持てる。しかも、その時間のほとんどは生きるために働くどころか、悩みごとや心配事とも無縁な時間。
普通の人は、腹が減れば、頭の中は食べ物のことで一杯になるし、リストラされれば、将来の不安で夜も寝られない。早く仕事を見つけて安心したい。それだけ精神の自由を確保する時間が持ちにくい。大きなハンデを背負ってる。
要は、心の中が何に満たされているかということだけど、悩み事でいつも満たされている状態のまま、高貴さに向けて精神を向上させるのは難しい。
高貴な人は高貴なことを考え続けた人。でもそれを可能にするためには、悩みごとで心を満たされる事態に陥らないだけの経済力はあったほうがいい。お金がありすぎて、逆に執着にならない程度には。
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