権威の源泉(ソフトパワーは抑止力になり得るか その2)

権威とは自発的に同意・服従を促すような能力や関係のこと。威嚇や武力によって強制的に同意・服従させる権力とは別のもの。

助言以上命令以下であるけれど、他者に対して権威的であるためには、その両者が同じ価値体系や規範を共有していないといけない。価値体系が異なる存在同士では、権威は発生しないから。

今の世界では、いくつかの価値体系がそれぞれあって、互いに覇を競っている。だけど、表面上は互いの価値体系の権威はそれぞれ尊重されているように見える。

では、価値体系の異なる間同士でも権威が発生しているかといえばそうでもない。

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たとえば、キリスト教圏以外の世界がローマ法王を権威と認めているのは、もしローマ法王をないがしろにしたら、世界中のキリスト教信者を敵に回すと思っているから。

権威権威といいながら、その裏には力の論理が隠れてる。

キリスト教圏内ではローマ法王はその世界の権威。でもその外の世界からは、権威とは認めていないのだけど、力の論理によって、それを言えないだけ。

国連が権威になりきれない理由もここにある。

国連は国民ひとりひとりのレベルでは世界中に浸透していない。なくても別に困らないと思ってる。国連の価値体系の世界は各国の中枢部レベルまでしか浸透していなくて、その下の国民には届いていない。

だからといって、国連を世界政府的にしたら権威づけできるじゃないかという考えは結構危うい。世界各国の政治状況や文化を含めた細かいところまで、外部から分かるわけがないから。

その国の事件はその現場で起こっているのであって、国連ビルで起こっている訳じゃない。


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