お金を生みだすもの (利潤について考える その4)

石油や天然ガスといった天然資源を生み出しているのは地球や自然だけれど、それら天然資源がなぜ価値を持つかといえば、それを必要とする人間がその資源に価値をつけているから。

もし、現代文明を支えるエネルギー源が原子力や水素にシフトしたら、石油の価値はうんと下がる。価値をつける主体はあくまでも人間。

また、実物ではない価値であっても、その価値がどれぐらい世の中の役に立つか、人々を幸せにするか、といった中身によって価値の高下が付けられている。

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価値は、一度、貨幣価値にいちど換算されて、その金が、新しく人を雇ったり、時間を節約したり、有益な情報を得たり、モノや場所を買ったり借りたりして、他の価値にそれぞれ転換されて使われる。

価値は運用できるものという観点からみると、一旦貨幣価値に換算した価値が、新たな次の価値を生むものに投資できてはじめて、その価値は運用できたことになる。

価値を運用できる社会では、お金を介して転換されたひとつの価値が人やモノ、場所や時間、情報といったものに転換され、それらが、またさらに別の価値を生むようになる。

たとえば、ひとつの価値を時間と場所に転換した場合、それを研究・生産施設として使用すれば、新しい製品開発の場となって、別の価値をもつ新製品を生むこともできるし、モノや情報に転換した場合は、文化の一部となってそれを押し上げて、新たな文化を生む土壌になることもある。

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価値を受け取って、それを別の価値に転換・投資して、利子を生むという順序が大切。

金融先物とか、株の世界なんかでは、たとえば、Aという資源が不足するから、値が上がりそうだとか、何か新しいものが開発されてそれが売れそうだとかいう、情報を元にした「何々しそうだ」という予測を利益に結び付けている。

この「何々しそうだ」に基づいた売買行動は、価値の運用という観点からみたら、価値の先食い、価値の借金にあたる。まだ価値が世に現れる前に利益を手にしてるから。

だから、手にした利益を、その価値を手にしたと同じ程度以上に新しい価値を生むことに使われないと、価値を運用したことにはならなくなる。

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もしも価値を運用しない行動、価値を貨幣換算したお金をただ使うだけの消費行動の社会があったとしたら、その社会では価値というものは、価値を生み出せる人、才能が開花した人だけしか生み出せないことになる。

そんな消費行動が延々と続くと、価値を生める新しい人が次々と登場しない限り、やがて価値を生める人が亡くなるにしたがって、先細ってゆくことになる。

価値を運用して、価値を生める主体をどんどん生み出していけない社会は、時間とともに疲弊してゆく構造を持っている。

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