新自由主義の是非 (利潤について考える その1)

儲けるということ、利潤について考えてみたい。全7回シリーズでエントリーする。

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[器・UTUWA&陶芸blog]より

最近、日本でも格差社会が叫ばれ、新自由主義というものに疑義が呈されるようになってきた。

新自由主義(ネオリベラリズム)とは、国家による福祉・公共サービスを縮小して小さな政府と民営化を進め、大幅な規制緩和と市場原理主義を重視する経済思想のこと。

要は、勝者は徹底的に勝って稼くべし、勝者の総取りを是とする思想。政府は面倒をみないから、自分の才覚と責任において、自分の面倒をみよ、ということ。

これがなぜ問題視されてきたかというと、格差が明確になってきたから。

なぜ格差が表れるかというと、人の能力や才覚は同じではないし、才能にも差があるから。当たり前といえば当たり前。

政府をどんどん小さくしていって、富の再分配をまったくしなくなれば、人の能力は殆どそのまま数値化されて、そのまま収入になってしまう。そうなると技能や才能がある人ほど稼ぐことになるのは当然の理。

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[器・UTUWA&陶芸blog]より

だけど、全ての人が、自分でも気づいていない潜在能力を含めて、自分の持つ才能を100%発揮できるとは限らない。将来、どんなに天才になる人であったとしても、生まれたての赤ん坊が、その天才性を発揮するなんて無理な話。才能を発揮するためには最低限の訓練は必要。

能力を発揮できるようになるには、能力を発揮できるための環境を整えるのは勿論のこと、能力の基礎となる技能や知識をまず身に着けなくちゃならない。

それらを整えるためには、やはり経済力がモノをいう。

元が金持ちだと、簡単にこれらの技能・知識を身につける環境が得られる。金持ちでない人は才能を発揮できるようになれないかといえばそうでもなくて、金の代わりに時間を支払うことで代償できる。劣悪な環境でも時間をかけることで必要な技能を身につけることはできるから。たとえ遅咲きの花になってしまうとしても。

だけど、時には才能が開花して世に出る前に寿命がきたりすることもあるから、金持ちと比べてハンデがあることはある。

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