「知性の種類 (心と商品について その2)」のエントリーにて、黄緑亀様からいただいたコメントを基に、補追1をエントリーします。本エントリーは順番としては、その2とその3の間に入るべき内容になります。
個々人がもつ多重知性のそれぞれの要素が、どのくらい発達しているかは、勿論個人差があるのだけれど、それぞれの知性を発現させ、磨いていくためには本人の修養や経験、周りの環境が大きく影響する。
交通機関や通信手段が発達していない昔であれば、自分と周りの人の職業や経験に大差がなくて、多重知性を発達させる材料も皆同じだった。いきおい、心のかたちも似たり寄ったりになりがちになる。
さらに、今と比べて、芸術文化や知識に浴する機会も少なかった筈だから、特に言語的、絵画的、論理数学的知性の目覚めと発達も難しかったのだろうと思う。一部の特権階級を除いては。
心は経験という外部からの刺激や内観という磨きを経て、練られ、そのかたちや色合いを変えてゆく。
だから数多くの文化芸術や知識に触れることができる現代人は、それだけ自分の心を豊かにして磨いていける材料に恵まれている。それらによって、様々な多重知性を同時に発現させて、磨いていけるチャンスの時代に生きている。
今の時代は文化芸術もさることながら、職業も多岐に渡っているから、個人個人の経験もひとそれぞれに細分化している。その結果、今に生きる人々の心もバラエティに富んで、個別に細分化してる。
お笑いタレントの島田紳助は、二十歳くらいの若手時分、京都の実家に、仲間の若手芸人をいっぱい集めては、「これからの笑いはやすきよの笑いとは違う、笑いは細分化されるんだ」と言い、若い相手だけを笑わせればいいと割り切って、独自の漫才スタイルを構築していったと述べている。
これも、社会が豊かになるにつれて、人の心のかたちが個別に細分化されていくから、すべての人にマッチする笑いはあり得ないと見抜いていたからなのだと思える。
多重知性を磨いていくには、時代性や環境の制約があって、その条件下で自らの心を磨くしかない。あまりにその時代を超えすぎた心のかたちを持つ人は、それを発揮できたとしても、周りに理解されずに不遇の人生を託つこともある。
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