虚飾の知に溺れたときの危険性(知性の発揮について考える その2)

知が単なる手段となってしまったとき、虚飾の知に溺れてしまったときの危険性について考えてみると、人に強いと思われたいと思って始める武道と同じように、「みせかけの型」に拘るようになるのではないかと思う。そんな人の取る態度として次の3つの特徴が出てくるのではないだろうか。


まず、本を読む態度として、本を読むのではなく、本に読まれてしまう。読んだ本の内容をそのまま鵜呑みにして、分かったことにしてしまう読み方。知識があるという「結果」だけ欲しいから、全部分かったことにしておけば、手っ取り早く知識を得られたことになる。

次に、人と話すときの態度として、本当はわからなくても、とにかく、話の辻褄さえ合えばよいと考えて、その場で適当に答えてしまうこと。その結果、後日別の話題を話したりなんかしたとき、以前自分が話した内容と矛盾がおこる可能性が出てくる。

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最後に、自分で文章を書くときの態度として、難しい単語を使ったり、平易な単語でも難しく書いたりして、読む人の理解を拒絶する書き方をすること。

人に話すのと違って、文章だと何回も読み直しされたりするので、論理的な筋が通った文章でないと恥ずかしい。だけど、本当は知っていないことは、自分でも良く分かっているから、バレるのが怖い。でも自分の文章を読んだ人には自分が知的であると思って欲しい。だから、読者にそれがバレないように、理解できないけれど、なんか凄そうなことが書いてあると思わせるように書こうとする。

その結果、文章は非常に荒れたものになる。他人に理解されないように、自分でノイズが多い文章を書いてしまうものだから、単語の選択や文脈の流れを自分で悪くしてしまって、最終的には、自分の論理的思考能力をも自分で破壊してゆく。自分の知性の向上を自分で邪魔してる。実にもったい無い。

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この記事へのコメント

  • 新快速 播州赤穂行き

    (続き)
    これも一種の「知性の発揮」なんだろうと思います。私も前者の能力は全くありませんので、少しでも後者の力を身につけれることができればいいなという思いで、日々駄文を書き連ねております。長文失礼いたしました。
    2015年08月10日 18:18
  • 日比野

    こんばんは、新快速 播州赤穂行き様、コメントありがとうございます。
    実はこのエントリーをしようかどうかいろいろ逡巡していました。自分で書いていて恥ずかしいです。自分ではちっともできていやしないのに、したり顔して載せているのですから。自分の戒めのつもりでエントリーしました。

    播州赤穂様は、「途転の力学」で難しい政治力学ととても分かりやすく解説し、同時にその原因追究もされています。ですから、おっしゃるような「何か新しいことを研究によって発見できる能力(新しい法則や理論)」と「既知の知を万人にわかりやすく伝える能力」の二つを兼ね備えていらっしゃると思っています。
    これからも分かりやすい解説・解析お願いします。
    2015年08月10日 18:18

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