万人の秀才とひとりの天才(コンテンツと規制について 最終回)

コンテンツ自体は何がしかに偏ったものしかありえないと言ったけれど、政治的内容とか、公序良俗だとか、その他優れた考えなんかが同じ人から発信されている場合も当然ある。

その人の思想が政治的にも、公序良俗的にも、全体の思想体系として構築されていると、抵触しているここだけ削除、なんて分離できないことだってある。無理強いすれば、表現の自由を束縛し、天才を凡人に変えてしまうことにもなりかねない。

だからコンテンツそのものを、中立性が守られているかとか、公序良俗に反していないかといった観点だけで規制してしまうと、その人の価値観や能力全て、要するにロングテールに含まれるコンテンツ全部をちょん切ってしまう可能性が出てくる。

しかも一番肝心な、しっぽのどこから切ってしまうかの裁量は、担当役人の匙加減ひとつ。

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[ピカさんの夢のある絵画]より

つまり、中立性だとか、公序良俗だとか、天才の意見だとか含めて、しっぽでない部分、生き残る部分の限界は、担当役人の価値観や能力の限界によって決まる。

担当役人が天才をしっかり見極められるくらいの眼力がある場合はいいのだけれど、そうでないと折角、将来世の中を震撼させるくらい凄いコンテンツがあったとしても、それが少しだけ政治的に偏っていたりだとか、公序良俗に触れるだとかいった理由でちょん切られたとしたら、その損失は計り知れない。

社会を滞りなく維持運営していくためには、秀才がある程度の人数以上いればいいのだけれど、世の中を一気に進歩させるのは、往々にして、ごく少数の天才達。

場合によっては、たった一人の天才が世の中を変えることだってある。

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だから、コンテンツの内容の判断は民主的方法で行うのがいい。たとえその時代では認められなかった情報であったとしても、発表の場さえあれば、後世の人が発掘して評価を与えることもできる。発表の場すら与えられないと将来の価値の芽を摘んでしまうことになる。

押さえておくべきもの、保障すべきものは「表現の自由」と「選択の自由」。

そこで大切なことは、個人の判断の基準となる価値観の部分をどうやって培っていくかの部分。平たく言えば、家庭を含めた教育の問題。

ここをしっかりできれば、価値の低い情報、公序良俗に反する情報は自然淘汰されていく。市場原理を情報の世界に適用すればいい。

物事の善悪きちんと見極められる人をしっかりと教育して増やしていくこと。嘘を嘘と見抜ける人を増やしていくこと。それが遠回りのようでいて、結局は一番の近道。


本シリーズエントリー記事一覧
コンテンツと規制について その1「規制の対象」
コンテンツと規制について その2「インターネットの交通ルール」
コンテンツと規制について その3「コンテンツと媒体」
コンテンツと規制について その4「中立とは何か」
コンテンツと規制について その5「自由と公平」
コンテンツと規制について その6「情報価値のつけ方」
コンテンツと規制について その7「2ちゃんねる」
コンテンツと規制について その8「ロングテール」
コンテンツと規制について その9「万人の秀才とひとりの天才」

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この記事へのコメント

  • 早雲

    TBありがとうございます。
    こちらからは通らないのでここで失礼します。
    「右翼」と「左翼」など
    http://sun.ap.teacup.com/souun/1339.html
    2015年08月10日 18:18
  • 日比野

    こんばんは。早雲様。コメントありがとうございます。
    すみません。TBは承認制なので、気づくのが遅くなりました。TBは通っていますので、ご安心を。
    今後ともよろしくお願いいたします。
    2015年08月10日 18:18

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