プロの選手はその道の専門家。その競技においては、もっとも高いスキルをもつ人達。
だけど、そのプロの選手を育てるのは観客やサポーターの目。目の肥えた客の目がプロを更に育てる。
怠慢なプレーやミスを起こしてもブーイングひとつしなかったり、素晴らしいプレーにも無反応なサポーターを背に試合を行うチームと、つまらないプレーやミスには容赦ない罵声を浴びせ、凄いプレーには惜しみない賞賛の拍手を送るサポーターを持つチームとでは、どちらが強くなっていくかは言うまでもない。
プロ野球のように、アジア予選など一位通過が当たり前という国民的合意形成がある反面、相手チームや個々の選手の力は客観的にきちんと評価できる風潮がある日本のプロ野球は、やはり強くなって当たり前。この客観的に評価できるというのは実に大切なこと。これがないと強くなるための正しい対策が立てられない。
サッカー日本代表の前オシム監督は、インタビューで自分がよく発言する「相手をリスペクトする」という言葉を、「尊重する」とか「尊敬する」とかいう意味で、日本のメディアが報道しているようだが、そうではなくて「すべてを客観的に見通す」という意味なのだと語っている。
このようなサポーターの意識とチームの強さに関しての相関関係は、なにもスポーツだけの話じゃない。国政や国防だって同じ。
今の国際社会では、厳格なルールと審判を持たせるのは難しいけれど、政治や軍事に関して、国民の目を肥えさせることはできるはず。
国民は国に対して、税金という名の年会費を支払うソシオ。クラブ会員でもある。その国民がサポーターの意識を持って政治に参加しているのか、それとも一ファンとして、ただのお客さんとして見ているのかでは、その国の政治の強さは全然変わってくる。
国民がサポーターの意識を持って国政を見るようになると、だんだん政治的な目も肥えてくるし、おかしなプレーには容赦ない批判を浴びせるようになる。正しい政治を行って当たり前だ、という意識や風潮が醸成されてゆくにつれて、政治家本人の政治技術、政治力も磨かれ、向上してゆく。
「一国の政治家のレベルはその国の国民のレベルに比例する」とは良く言われるけれど、それはそのとおり。愚民の上に苛き政府あり。日本の政治を良くするということは、国民が国政のサポーターになるということなのだ。
人気blogランキングへ
この記事へのトラックバック
この記事へのコメント