代闘士 (スポーツと戦争について考える その8)
藤子不二夫のSF短編漫画に「ひとりぼっちの宇宙戦争」という作品がある。
これは、地球とハデス星間の戦争での地球側代闘士として選ばれてしまった主人公が、訳も解らず相手方の代闘士と戦うはめになる姿を描いた話だけれど、その中に惑星間の全面戦争は星間法で禁じられており、1対1の代理人同士の戦いをすることになっている、というくだりがある。惑星間の全面戦争は両惑星の被害があまりにも大きすぎるというのがその理由だと説明されている。
本当の意味で正々堂々と勝負するというのであれば、この代闘士同士で戦うというのが一番合理的。
歴史上、ヨーロッパ封建社会では、民事・刑事の紛争は、当事者の「決闘」によってカタをつけていたけれど、女性や老人が紛争の当事者になった場合は、親族の中から屈強な男が選ばれた。当事者の身内の「代わりに闘う」という風習は、やがて「代闘士」という役割の職業化に繋がっていった。
だけど、近代戦争は往々にして全面戦争にまで発展してしまう。なぜかといえば国民国家が成立して、国民全体がサポーターになってしまったということと、簡単に負けを認める訳にはいかないということがあるから。
たとえば、代闘士制に倣って、金メダルをとった国が次のオリンピックまで覇権を握る、なんてルールがあったとしても、納得する国はまずないだろう。サッカーでは負けたかもしれないが、野球なら勝つ、とか100m走なら絶対負けない、とか次々と勝てる種目で勝負を挑むようになって収拾が付かなくなる。それ以前にそもそもスポーツで決めるなんてナンセンスだと言い出すに違いない。
たとえ、個人がどんなに戦争が嫌いだったとしても、戦争当事国の国民となると、その扱いはファンではなくてサポーター。戦争の勝敗の結果が、そのまま自分の生活に関わるから「見る人」にはなり得ない。たとえ実際の戦闘をTVで見てるだけであったとしても。
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