勝利とフェアプレー (スポーツと戦争について考える その5)
政治的・経済的利益を除いて、戦争に勝つことと、オリンピックで金メダルを取ることとで、国威の発揚という面だけでみればそう大差はない。
だけど、国威の発揚といっても、国内向けに必要とされるものと、対外的、国際的に求められるものとでは、その内容は異なる。
国内向けにはまず勝利。国際的にはスポーツマンシップ。
国威の発揚って、その対象は自国民。だから国民が求めるものを求めることになる。端的にいえば、勝利そのもの。選手でない大多数の国民も、国際試合になれば、参加意識を持ちやすい。メダルの多寡が重視される。
だけど、それを見ている世界各国にとっては、自国の選手が出場している種目や試合は参加意識を持つけれど、それ以外は「見る側」になっている。内容がないと価値を認めない。グッドルーザー、スポーツマンシップがあることは当然の前提。
だから、国際試合においても、勝利か内容かの命題はやっぱり存在していて、自国は内容より勝利を、競技を見ているだけの周りの国は、勝利より内容を求めるようになる。これらにも、競技に参加する側と見る側の意識の差が反映していることは言うまでもない。
一番望ましいのは、フェアプレー精神を完璧に発揮して、正々堂々と勝負を挑み、そして勝利すること。日本人が一番好む姿。
先の北京五輪野球アジア最終予選で、日韓戦での先発メンバー交代に関する紳士協定を韓国が破った件でも、日本で多々批判されている。日本人は、そういった卑怯な真似は許さない。
あまりにも勝利至上主義が行き過ぎると、当然その弊害も大きい。その場の勝利だけなら反則でもなんでもやりたい放題になる。反則によって、たとえその場の勝利を得たとしても対外的な信用は地に堕ちる。
これもその国家としての世界観がある程度現れているのかもしれない。ある政権や国が永遠に存続するものか、それともいずれ倒されて滅ぼされてしまうものかという世界観の差。
中国なんかだと王朝交代期には、倒された前政権は復讐を恐れる新政権から大抵は完全に滅ぼされてしまう。勝利こそ全て、敗者は滅ぼされる世界。こんな世界に長く生きていると、その場その場の勝利が全てと考えて、その後の評判などあまり気にしなくなるのかもしれない。
日本は天皇の存在もそうだし、島国という村社会が長く続いたから、皮膚感覚で国は永遠に続くものと思っている。一度でも評判が落ちたものは生きて生けない。よってあとあとの評判や信頼を重視する考えが身についている。社会文化からフェアプレーが前提になっている。
2002年日韓共催サッカーW杯では、世界中から日本に取材が来たけれど、日本選手のフェアプレー精神は高く評価された。中でも興味深かったのは、各国チームが使用したロッカールームは、ゴミがちらかり放題で、それが当たり前だったそうなのだけど、日本チームが使用したロッカールームだけは、使用前みたいに綺麗に片付けられていたということが驚きをもって伝えられたこと。
日本のサッカーは強くなってきたとはいえ、世界からみればまだまだ発展途上。だけどその過程やフェアプレーの精神、さらには世界が日本サッカーを見るまなざしは、明治以降の日本が発展していった歴史過程と、それを世界がどう見ていたかということを再現しているようにもみえる。
当時の日本もその規律正しさや国際ルールの尊守精神が高く評価され、信頼された。日英同盟を結べたのも日本人に対する世界の信用が大きく貢献した。
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この記事へのコメント
あきつ
いつも良いエントリですね
スポーツできちんと日本を見直すことは良いと思いました