縁起のレイヤーが結ぶ世界  《エピローグⅠ》 と シナに国民国家が成立しない理由についての仮説

当日比野庵とリンクさせていただいている深森の帝国の美月様より、今回の縁起のレイヤーが結ぶ世界シリーズについて、そのコメント類を一括・整理した記事を、とのリクエストがありましたので、ちょっとやってみたいと思います。(内心、次の記事までの時間稼ぎが出来るので嬉しかったりします σ^^;)ええ。

分割して3回に分けてエピローグとしてエントリーします。

といっても、ただ纏めてるだけ、というのもアレなので、文末に本シリーズの補追の1として、「シナに国民国家が成立しない理由についての仮説」もエントリーします。

※コメントは敬称略

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□縁起のレイヤーが結ぶ世界シリーズの全体構成

  1.縁起のレイヤーからみた国のかたち
  2.六道輪廻と縁起レイヤーの関係
  3.縁起の縦糸と横糸
  4.日本の縁起レイヤー構成
  5.中国の縁起レイヤー構成
  6.多民族国家の縁起レイヤー構成
  7.中世化する世界
  8.各レイヤーの接続問題
  9.縁起レイヤー内通信の問題
  10.言語と国は一致するか
  11.『情』と『意』の翻訳と相互理解
  12.思考のオーケストラ
  13.世界調和の交響曲


□各章の概要とコメントのまとめ
※文末に補追1として「シナに国民国家が成立しない理由についての仮説」をエントリー

1.縁起のレイヤーからみた国のかたち

概要: 国民国家が成立する前には、庶民は下位レイヤーでの活動が中心で、国王や宗教的権威存在が上位レイヤーでの活動をしていた。国民国家において、国民は上位レイヤーへ進出していき、下位レイヤーから順を追って国家が形成されていった。

コメント:マルコおいちゃん
日比野さん、面白そうなシリーズです。
話を少し先取りしてしまえば、シナ社会の場合は、家族レイヤーよりもはるかに大きい「宗族レイヤー」があって、それが中間レイヤーをとびこえて最上級レイヤーである国家と結びついている、ということでしょうか。そしてそれは近代国家すなわち国民国家建設の試みにも関わらず変化していない、と読まざるをえないようです。これについては、弊ブログでもあつかってみようと思います。


コメント:日比野
こんばんは。マルコおいちゃんさん。コメントありがとうございます。
見事に先取りされてしまいましたね^^; 中国の縁起レイヤーは、このシリーズの第5回で触れる予定です。私もご指摘とほぼ同じ認識でいます。



2.六道輪廻と縁起レイヤーの関係
 
概要: 国の発展段階は六道輪廻の世界観と当てはまり、六道の段階によって国政の重点が変わる。六道を上るに従って上位レイヤーも活性化してゆく。


コメント:マルコおいちゃん
たしかにこのご説明でよく理解できます。とするとやはり国の規模が問題になってきますね。老子のいうような小国寡民が「人間・天道の段階」に達しやすいことになります。もちろん民度と指導者にもよりますが。


コメント:日比野
こんばんは。マルコおいちゃんさん。
ご指摘に国の規模、そうですね。あまりに大国であると、全部を人間・天道までもっていくのは大変な困難を伴うと思います。



3.縁起の縦糸と横糸

概要:国家は伝統を伝える縦糸と社会契約の横糸で構成されている。横糸が緩い国家は往々にして縦糸に頼った政策をとる。


コメント:マルコおいちゃん
日比野さん、シナは横糸がゆるすぎて縦糸(特に反日)ばかりにたよっていますから、きっといつまでも縁起が縫いあがらないのでしょうね。
半島は、横糸が半分にちぎられているので、これも縦糸だより、というわけです。実にわかりやすい理論です。


コメント:日比野
マルコおいちゃんさん、こんばんは。
横糸が弱いとどうしても縦糸に頼るしかありません。半島はその縦糸も頼りなく、それを自覚しているがゆえに世界で認められている日本文化の起源が半島にある、という嘘を喧伝してでもなんとか国を纏めていこうとしているとも解釈することができるかもしれませんね。


※日比野追記

 この章は意外と好評だったみたいで、深森の帝国の美月様とか、こちらとかこちらとかのコメント欄にて触れていただいているようです。当ブログを紹介していただいたマルコおいちゃん様に深く感謝申し上げます。

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4.日本の縁起レイヤー構成

概要: 日本は下位レイヤーレベルでの密度の濃い縁起の繊維構造がそのまま上位レイヤーにも当てはまるという世界でも稀有の存在

コメント:特になし


5.中国の縁起レイヤー構成

概要: 相互信頼のあるレイヤーだけが、人を動かす縁起のレイヤーとして機能する。中国社会には、最下位レイヤーとして「宗族・幇」のレイヤーだけがあって、その上のレイヤーは存在しない。中国人にとって「宗族・幇」以外のレイヤーは社会ではない。


コメント:マルコおいちゃん
日比野さん、こんにちは。同じ結論でも、アプローチの仕方でずいぶんちがった印象になるものですね。(※)
シナには元来、天下だけがあって国家がなかった。「国家」という言葉自体が日本語からの輸入以前は、「公的生活と私生活」、「皇帝」などという意味で使用されていたわけです。それゆえ「国民」というこれも日本語起源の概念を充填する現実もありません、ただ人民が存在するのみであること現在も基本的変化はありません。勝海舟の指摘どおりです。
「国民国家」建設を目指して失敗を重ねるシナにおける政権は、国民党、共産党をとわず、歴史哲学が欠乏しているか、まったく誤った方角に運用しているかでしょう。それもシナの「中国病」のせいです。
日米欧に留学するシナ人諸君の虚心坦懐な思索と探索を希望するのですが・・・


● 日比野注(※)どういう印象をお持ちになったのか、実は気になっていたりします。

コメント:日比野
マルコおいちゃんさん、こんばんは。
こちらでも貴ブログのご指摘どおりの結論になりました。
シナにはなかなか国民国家という概念が定着していかないようにみえるのですが、その理由が私にはまだはっきり見えていません。
あまりにも人民が抑圧されていた歴史がありすぎて、国家観まで育たないのでしょうか。これもシナの「中国病」ということなのでしょうか?


コメント:マルコおいちゃん
日比野さん、こんにちは。
限られた私見では、シナ人は「国民国家」に対する研究が不足しているか、充分研究はしていても「中国」的国家観とはあまりの隔たりがあるため運用できないか、でしょう。わたしは研究不足のほうに一票を入れておきます。
「国民国家」という字面さえお眼にかかったことはありません。あくまで「人民中国」というレベルに止まっているようです。たぶん「国民」も「国家」もともに日本語起源の言葉であるため定義が曖昧なのでしょう。
この場合、人民は関係ありません。いわゆる知識人の問題です。人民は、食って生殖するだけ、というのがシナの古代からの有様だからです。


コメント:日比野
マルコおいちゃんさん、お返事ありがとうございます。
「国民国家」の研究が不足するあまり、概念としても捉えきれていないということですか・・・
外から眺める分には、隣の日本がいいお手本のようにも思えますが、国民のおかれた状況や環境に差があまりにもあって、単に真似をしようとしてもうまくいきそうにないように思えます。
日本は開国前の江戸期のような。封建制の段階でみても庶民の暮らしぶりが充実していましたから、経済レイヤーはもとより、思想レイヤーレベルでも国政に関すること以外、結構庶民が上位レイヤーにまで進出できてそれなりに活性化していたのではないかと思っています。
大きな枠でみれば、幕藩体制下であってもそれなりにうまくいっていたということだとおもいます。もちろん寺子屋をはじめとする教育機関の充実や識字率の高さがそれを後押ししたことは言うまでもありません。


コメント:マルコおいちゃん
日比野さん、こんばんは。
日清戦争敗北後、シナは(当時は清朝ですが)、懸命に日本をまねびしようとはしたのです。が、いわゆる辛亥革命の「成功」が清朝政府の努力をすべて台無しにしてしまいました。そして革命政府は、うかつか故意にか「国民国家」建設の道を歩まずシナ式帝国を選択してしまいました。それから今まで、「国民国家」は建設はかなわぬ夢となり続けています。
それはやはり「中国病」が重い足かせとなっているから、としか思えません。
シナでは下位レイヤーと上位レイヤーの担い手が、歴史的に、ほとんど半分以上ことなっており、上位レイヤーは異民族によって取って代わられたことがままありました。シナ人は、それを指して「異民族統治者のシナ化」といっていますが、それはただの負け惜しみです。いわゆる「中華」文明にも沢山異民族のものが入り込んでいるのです。華夷混合文化、これこそシナ文明の内実です。そこを素直に認めることこそ「中国病」治癒の可能性が開けるはずなのですが・・・


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● シナに国民国家が成立しない理由についての仮説 (縁起のレイヤーが結ぶ世界 補追1)

シナに国民国家が成立しない理由は、中世を経験していないというのも勿論だけど、中国人自身に、自らをたのみとする気持ちが強すぎる、いわゆる自負心が肥大化し過ぎている面があるのではないかと思える。(マルコおいちゃん様が指摘する「中国病」!?)

シナ社会の相互信頼性の低さがそうさせるのだろうけれど、要は、自分以外誰も信じられない社会で生きざるを得ないからこそ、全ての物事の価値判断は自分だけが行う。他の誰が何を言おうが、もともと他人など信じられないからそうするしかない。

全ての判断は自分が決める。俺がルールブックだ、の世界で人民一人ひとりが生きている。だから、政府が何をいおうが、誰が皇帝だろうが、自分が認めない限り、それは(主観的には)皇帝でもなんでもない。皇帝は俺なのだ、という考えでそれぞれ生きているのではないだろうか、と。

故に、自分の判断において、自分が認めた、または認めてくれた相手には、徹底して忠義をつくす、いわゆる「義」によって結ばれる社会が形成されていったのだと思う。

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だからシナでは、ひとりひとりが多様な主体に帰属する機会もなく、一匹狼の集団の集まりになって、国民意識はいつまで経っても醸成されることがない。国民国家には、個人が国家に帰属して、その主体となっている意識があることが前提になるから。

この仮説が本当だとすると、シナに住む人民十数億人がそれぞれ違ったマイルールで生きていることになり、そこにはグローバルスタンダードなどないし、また存在することも出来ない。

この考えの怖いところは、彼らがそれぞれ自分で勝手に設定して、判断した「義」が、自由主義国家圏で通用しているいわゆる「社会正義」より優先することが容易に在り得ること。

日本人からみると、実に恐るべき社会のように見える。

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